ブランドに興味のない人でも「ルイヴィトン」の名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。様々な装飾品などで超一流高級ブランドとして有名です。説明するまでもないでしょう。なぜ、いきなりルイヴィトンの話をするのか?
実は幕末時代の薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)が日本人初のルイヴィトン愛好者であったといわれているのです。肖像画などを見ても、凛とした洒落者っぽい感じはしますし、なんといっても、「蘭癖大名」である曾祖父の影響を受け、自身も相当の西洋通であった島津斉彬です。高級ブランドと関係があってもおかしくはないでしょう。いったい島津斉彬とルイヴィトンにはどんな接点があったのでしょうか。
この記事の目次
ルイヴィトンとはなんのメーカー?
(絵:ルイヴィトン wikipedia)
そもそも、ルイヴィトンは世界初のトランク専門店として誕生しました。1854年フランス・パリで店を開き、ルイヴィトンはトランクの販売を始めたのです。島津斉彬が死去したのは1858年ですから、その接点は4年しかありません。ということは、かなり早期のルイヴィトン愛用者であったということが言えそうです。実際にそのブランドが知られるようになったのは、1860年以降であったと言われています。
ルイヴィトンがブランドとしての価値を上げたのは1867年のバリ万国博覧会での銅賞受賞、1889年のバリ万国博覧会では市松模様のダミエラインで金賞受賞という過程の中で、世界的に知られて愛好者が増えていったのです。
ロシア帝国の最後の皇帝であるニコライ二世皇帝もルイヴィトンの愛好者だったようです。彼は、日露戦争のときのロシア皇帝です。大日本帝国・海軍は薩摩藩直系です。日本海海戦で有名な連合艦隊司令長官・東郷平八郎は薩摩出身です。島津斉彬の末裔と日露戦争を戦った皇帝ニコライ二世も、島津斉彬と同じルイヴィトン愛好者であったというのは面白い話です。
その他にも、同時代ではスペイン王国のアルフォンソ12世などの愛好者がいます。島津斉彬の死後、ルイヴィトンは、世界の王宮貴族からの発注を受ける超一級ブランドになっていったようです。島津斉彬は古参のルイヴィトンファンだったようです。
関連記事:島津斉彬は幕末の天才藩主だった3つの理由
島津斉彬はルイヴィトンをどこから入手した?
島津斉彬がルイヴィトンを入手したのは、かなり早い時期です。これほど早い時期に極東の島国の藩主である島津斉彬が、どうやってルイヴィトンを入手したのでしょうか。不思議です。今のところ、明確にこれだという史料は発見されていませんが、当時の薩摩藩が琉球を窓口に海外交易を進めていたことを考えると、琉球(沖縄)経由でルイヴィトンを入手したと考えるのが一番筋の通っている説のように思われます。
島津斉彬は琉球を中継地とした欧米諸国との交易を計画していました。更に、ルイヴィトンの故国であるフランスとの交易により、大砲、小銃などを買い入れ、更には軍艦の発注も行っています。このようなフランスとの繋がりの中で、島津斉彬の手にルイヴィトンのトランクが渡されたのではないかと推測できます。
ルイヴィトンのモノグラムの秘密
薩摩藩とルイヴィトンの間には意外なつながりがあります。薩摩藩の家紋といえば、馬印轡十字ですね、丸の中に「+」が書かれた紋章です。馬印轡十字の家紋というのは、隠れキリシタンが、「家の家紋です」と言い訳に使用したとの伝承もありますが、十字形というのは、キリスト教徒にもなじみの深い物ではなかったかと思います。
ルイヴィトンの「モノグラム」には丸の中に丸の中に星印の書かれた文様があります。これが、島津家の家紋である馬印轡十字をモチーフにしたものだと言われています。薩摩藩が1867年にパリ万博に薩摩焼を出展しました。
「白薩摩(白もん)」と呼ばれる白磁に華美な装飾を施した逸品です。これが大絶賛されます。その薩摩焼を同じく出展していたルイヴィトンが注目しました。ルイヴィトンは島津家の家紋に「インスパイア」を受け新たなデザインを作ったということです。草葉の陰で島津斉彬も喜んでいたかもしれません。パクるな!と怒ることはまずないと思います。
ルイヴィトンのトランクを買った最初の日本人って?
島津斉彬が最初のルイヴィトン所有者であったのは間違いないところです。では、最初に購入したのは誰なのでしょうか。最初の購入者とされているのは、土佐藩出身の上士であった後藤象二郎ではないかと言われています。
後藤象二郎は1883年のパリ万博に参加し、ルイヴィトンのトランクを購入したとされています。彼の名は、ルイヴィトン社の顧客名簿にも残っていますので、明白な証拠がある、日本人初のルイヴィトン購入者としていいのではないでしょうか。
後藤象二郎は、購入したルイヴィトンのトランクを一緒にルイヴィトンフランスを訪問していた板垣退助に贈っています。彼らは親友だったと伝わっています。板垣退助は、フランスの政治思想、人権に関する書籍を頑丈なルイヴィトンのトランクに詰め込んで帰国したそうです。後に自由民権運動に身を投じる板垣退助は、このときにルイヴィトンのトランクに詰め込まれた数々の本で、自由民権運動の基礎となる思想を創り上げていったのかもしれません。
島津斉彬は贅沢好きなミーハーだった?
島津斉彬は曾祖父の島津重豪の強い影響を受け、西洋文明に傾倒していきます。その島津重豪は、西洋や中国の珍しい文物、華やかに惹かれる部分が大きく、藩の財政を大きく傾けながらも緊縮財政など絶対に許さず、死ぬまで散財を続け89歳まで蘭癖を貫いた生粋の西洋オタクでした。
しかし、島津斉彬は「コレクターとしての西洋オタク」ではなく、自分の薩摩藩を西洋の様に近代化してしまおうと考える、ある意味もっと重症というより、開明的な「蘭癖」の藩主だったのです。集成館事業などで、造られた工場群、そこで生み出された西洋諸国でしかあり得なかった大砲や軍船など、実用的であり、当時の日本の危機的状況を踏まえた上で、自身の西洋知識を使っていった天才でした。そんな、彼がルイヴィトンを愛用したのは、ミーハーだったわけではないでしょう。
そもそもルイヴィトンがまだ、世界的なブランドとして名を成す前だったのです。おそらく、その頑丈なトランクがモノを運ぶのに便利であるという合理性において、選んだのではないでしょうか。
一流の人物は一流のアイテムを持っていた
よく言われることですが、一流の人は一流のアイテムを持つということです。これは単なるお金があるか見栄を張るというわけではなく、本当にモノの価値が分かるという人間であるということではないかと思います。そもそも島津斉彬がルイヴィトンを入手したのは、ルイヴィトンが開業してまだ4年目です。
銀行などが、事業として「安定しているかどうか」というのを調べますと過去三年間の経営状態の資料などの提出を求められるわけです。島津斉彬が、ルイヴィトンのトランクに出会ったとき、ルイヴィトンはパリで店を開いて4年しかたっていません。それほど早い時期に島津斉彬は、ルイヴィトンの価値を見抜いたといえるのではないでしょうか。一流の人物は見る使うアイテムに対しても見る目があるということなのでしょうね。島津斉彬はルイヴィトンの中でも屈指の古参ファンである歴史上の人物だったのです。
幕末ライター夜食の独り言
島津斉彬は、なんでもかんでも、西洋のモノをありがたがるというタイプの「西洋かぶれ」ではなかったのです。いいものは良いと認めます。ルイヴィトンもその実用性を高く評価したのでしょう。幕末に日本にいた有名な医師ポンぺが、島津斉彬について語っている史料が残っています。
彼は西洋文明を取り入れるときに、西洋人に丸投げせず、日本人の手と日本人の工夫も取り入れ西洋文明を吸収していったというのです。アジア・アフリカの国でも西洋化を目指した国はあったのです。何も西洋化を目指したのは日本だけではなかったのです。
しかし、西洋のモノをそのまま評価せず受け入れたり、西洋人に丸投げしたりしないで自分たちの手で「西洋を創ろう」としたのは、日本人だけであったようです。そして、その嚆矢(こうし)となった人物が島津斉彬であったのです。そんな彼に選ばれたルイヴィトンはやはり、素晴らしいものであったのでしょう。
関連記事:島津久光(しまづ ひさみつ)とはどんな人?西郷隆盛の生涯のライバル?
関連記事:西郷どんと会津藩はどんな関係性なの?3分で薩摩藩と会津藩の関係を理解