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島津久光を好きになってはいけない6つの理由

2018年2月25日


 

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NHK大河ドラマ 西郷どんで言動がカワイイとして人気を集めている島津久光(しまづひさみつ)しかし、皆さん騙されてはいけません!どうせ#ひさみちゅなど主人公の西郷どんの足を引っ張る悪役に過ぎないのです。ここでは、ウッカリ、ひさみちゅのファンになりそうな人に向けて、島津久光を好きになってはいけない6つの理由を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1.謙虚で礼儀正しく乱世に相応しくないので好きになってはいけない

 

幕末の薩摩藩の藩主は自己PRが強くないといけません。名君として知られる島津斉彬(なりあきら)でさえ、父を失脚させようと薩摩藩の密貿易情報を幕府にリークしてしまった位です。善い悪いではありません、藩主の地位に執着する父に対しては、これくらいの事をしないと、日本や世界を相手に出来ないでしょう。

 

一方で、ひさみちゅは、そんなライバルの斉彬と仲が良く、せっかく、母のお由羅や父の斉興(なりおき)が久光を藩主にしようと頑張って斉彬派の陰湿な攻撃に耐えているのに、ひさみちゅときたら・・「藩主は、順番から言って正室の子で兄の斉彬が先だよね」と呑気で自分からガツガツ、藩主の地位を狙わないのです。

 

なんというマイペース!しかも、斉彬が藩主になってからも、それを屈辱に感じる所か、斉彬の相談相手になってしまうのです。幕末乱世の人とは思えない礼儀正しい人じゃないですか!ライバルの斉彬も、自分の子供がいるのに、ひさみちゅの子供を養子にして、家督を譲る事を決めてしまうし、どんだけ誠実な人でしょう。

 

それに西郷どんが奄美大島に流罪になった後も下級武士から西郷どんの幼馴染の大久保一蔵(おおくぼいちぞう)を登用し小松帯刀(こまつ・たてわき)のような新進気鋭の人材を家老職につけたり、五代友厚(ごだい・ともあつ)のような斉彬時代からの実業家も見捨てず、イギリスに藩の金で留学させ、誰にも褒められもしないのに、黙々と薩摩藩の人材の幅を厚くして、西郷どんや大久保の維新回転の事業をアシストしているのです。骨折り損のくたびれもうけを引き受け、手柄を部下に与えてしまうお人善しの、ひさみちゅを絶対に好きになってはいけません。

 

 

2.西郷どんに嫌われても気づかない天然なので好きになってはいけない

 

斉彬の死後、藩主はひさみちゅの子、島津忠義(ただよし)に継がれます。ひさみちゅは、まだ若い忠義の後見人として薩摩藩の実権を握るのです。その頃、幕府は大老井伊直弼(いい・なおすけ)が暗殺されるなど弱っていて、ひさみちゅは、今こそ幕府と朝廷を結び付けて薩摩藩の発言力を強化するチャンスだと考えて、藩兵を率いて上京しようとします。

 

しかし、江戸や京都の事に詳しい部下がいないので、かつて斉彬の下で活躍していた西郷どんを奄美大島から呼び戻して使おうとしました。ところが、ひさみちゅは、西郷どんが斉彬の急死は久光が毒殺したのだと思い込み憎んでいた事を何も知りませんでした。

 

西郷どんは、ひさみちゅが懸命に考えた上京プランに一々ケチをつけ、「田舎者のあなたに斉彬公の真似は無理です」ときっぱり!ピーコのファッションチェックのような容赦のなさに、ひさみちゅ激怒

 

「折角、使ってやろうと思ったのに何で文句をつけられないといかんのだ、失礼なやつじゃぷんすか!!」

 

これ以来、ひさみちゅは西郷どんが大嫌いになります。主君ともあろう人が、自分が部下に嫌われている事も分からないなんてあまりにも天然すぎますよね!しかも、ひさみちゅなんだかんだで大嫌いな西郷どんを切腹もさせず、ちゃんと明治維新に参加させているので、天然な上に寛大じゃないですか。ワガママ藩主に相応しくない、ひさみちゅを好きになってはいけません。

 

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3.知らない間に明治維新の準備をしたので好きになってはいけない

 

ひさみちゅは、元々幕府を倒そうという考えは持っていませんでした。弱ってしまった幕府と、当時人気を集めていた朝廷を公武合体させ、その功績で中央の政治に参加し幕府が独占していた海外貿易の利益を分けてもらおうとしたのです。

 

1862年、ひさみちゅは藩兵700名を率いて江戸まで行き、幕府に朝廷や雄藩と協議して提言した改革案を突きつけます。改革案は、将軍後見職に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を置き、政事総裁職に開明派の松平慶永(まつだいらよしなが)を任命する事。攘夷派の浪士が溢れて殺伐としてきた京都に治安維持を目的に、京都守護職を置く事、それに幕府の軍事体制を近代化する等がありました。

 

久光が幕府に出した様々な提言を文久の改革と言います。文久の改革の主要な事は、急死した島津斉彬が幕府に要求していた事で、ひさみちゅが異母兄の斉彬の遺志を継いで実現したものです。控え目に言うと、斉彬が出来なかった事を達成したわけですね。

 

新選組の土方歳三

 

また、京都守護職は会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が就任して、その下に新選組が登場しますから、ひさみちゅがいなければ土方歳三も近藤勇も沖田総司も登場しなかった事になります。ひさみちゅが、新選組の誕生に一役買ったのは間違いない事です。

 

しかし、文久の改革には、将軍家茂(いえもち)の上洛や、参勤交代の期間の縮小、大名が江戸に人質を置くことを廃止するなど幕府には都合が悪い内容もあり、それを飲んでしまった幕府は諸大名を統制する力を失い結果として衰退し滅亡に突き進んでしまったのです。もし、ひさみちゅが、これらの幕府に不利な条件を飲ませなければ各地の大名だって、江戸の人質を気にして鳥羽伏見の戦いでも、幕府を裏切って薩長に寝返ったりしなかったでしょう。

 

そしたら、鳥羽伏見の戦いも中途半端で終わってしまい、日本は大阪辺りで幕府軍と薩長軍で分断されてしまい明治維新は達成されず朝鮮のような分断国家になったか、或いは明治維新は、ずっと遅れたかも知れません。考えてみると明治維新を達成したのは、幕府に平和裏に権限を譲歩させた、ひさみちゅの功績とも言えますね。自分の知らない間にトンデモナイ偉業を成し遂げたひさみちゅを皆さんは好きになってはいけません。

 

はじめての明治時代

 

 

4.何故か尊攘派にされ、薩摩藩を近代化したので好きになってはいけない

 

1回目の上京の帰りに、ひさみちゅの行列は生麦事件を起こします。これは、ひさみちゅの大名行列を4人組のイギリス人が騎馬のままで横切り行列を乱したので無礼討ちになった事件ですが、当時、東海道では日本の習慣を知らない無礼な外国人が騎馬で東海道のど真ん中でたむろして大名行列を邪魔するという、現代でいうと、ヤンキーがコンビニ玄関でウンコすわりして一般客を睨むようなトラブルが続出していました。ですが、外国を恐れる事、尋常ではない幕府は文句も言えません。

 

どうにもならないので、ひさみちゅも部下に「異人のやる事だから少々の事は目をつむれ」と通達しましたが

 

ひさみちゅの行列に絡んできたイギリス人は最悪に性質が悪く、下馬して道を譲るどころか、馬から降りずに、むしろ、ひさみちゅの駕籠に近づいてきたので、やむなく無礼討ちにしてしまったのです。

 

これを知った朝廷や尊皇攘夷(そんのうじょうい)の志士は大喜び、「率先して攘夷を決行するとは、流石は薩摩様」と大歓迎し逆に幕府は余計な事をして仕事を増やしたと激怒しました。さらに、薩摩とイギリスは事件の賠償金の支払いで揉めて、1863年には薩英戦争が起きて、薩摩藩は敗北します。でも、これを切っ掛けにイギリスと薩摩藩は仲良くなり、留学生をイギリスに派遣するなどしました。結果として薩摩は近代化を促進させ倒幕へ突き進むのです。

 

色々ピンチを招きましたが、結果として禍転じて福と為してしまうミラクルなひさみちゅを好きになるのは、お勧めしません!

 

5.西郷どんの赦免が素直じゃないので好きになってはいけない

 

ひさみちゅが推進した幕府と朝廷との共闘=公武合体は将軍後見職の一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)と島津久光松平慶永(まつだいら・よしなが)朝廷との折衝が折り合わなくなり頓挫してしまいます。事態に行き詰った薩摩藩では、下級武士の間で命令無視の罪で、ひさみちゅに沖永良部に流された西郷隆盛(さいごうたかもり)の復帰を待ち望む声が出てきました。

 

でも、西郷どんが嫌いなひさみちゅは許したくありません。しかし、下級武士達が血判状を造り要求が通らないなら集団で、切腹すると言ってきたので、そうもいかなくなりました。

 

けど、自分で許すとは言えない素直じゃない、ひさみちゅは、キセルの銀の吸い口に歯型がつくほど噛み締めた後で

 

「ど、どーしてもって言うんなら、殿様に聞いたらいいじゃない殿様が許すっていうなら、私も反対なんかしないんだからね!」などとコメントしました。

 

こうして、久光よりもずっと物分かりがいい藩主の忠義は、西郷どんを許してしまうのです。

 

ですが、よく考えると、ひさみちゅが反対しない事を親孝行な息子の忠義が反対するわけないですよね?本当は西郷どんを許しているのに、素直に言えない、プリティ駄々っ子な、ひさみちゅを好きになってはいけません。

 

俺達尊攘派

 

 

6.なんかズレている ひさみちゅを好きになってはいけない

 

ひさみちゅは、結果として倒幕に舵を切りましたが封建体制を無くす事には猛反対でした。なので明治4年に、明治政府が廃藩置県を行うと、大激怒してしまいます。

 

そして、鹿児島の自邸で一晩中花火をあげて、廃藩置県に抗議しますが、なんか花火って違くないですか?花火はめでたい時に上げるものであって、怒りの表現としては、ちょっとズレてると思うのです。下手をすると、廃藩置県万歳だとも取れるじゃないですか!

 

この花火、実は鹿児島の象徴桜島の噴火に見立てたものだそうです。「俺の怒りは、噴火しておるぞ」という意味なんでしょうね。いまいちよくわかりませんがスケールは大きいです。おまけに、ひさみちゅは廃藩置県を契機に明治政府も嫌いになり生涯、ちょんまげも切らず洋服も着ず腰には刀を差して71歳で死去するまでそれを通しました。

 

西洋化は認めたが、衣服まで改めて日本人の魂までは売らん、という事でしょうか、なんだか貴乃花親方みたいですね。さらに、ひさみちゅは息子の忠義にも、ちょんまげは切らないよう命じそれを守った忠義は生涯ちょんまげを切らず、洋服姿にちょんまげで通し周囲をビックリさせました。こんな風に、色々な面でズレているひさみちゅは、まるで参考になりませんから好きにならない方がいいです。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

ひさみちゅは、礼儀正しく後継者問題でも兄の斉彬を立てる人であり西郷どんに嫌われている事も分からないで登用する天然な人です。

 

幕府を助けるつもりが、意図せずに弱体化に力を貸してしまい、攘夷派ではないのに生麦事件のせいで攘夷派と思われ、薩英戦争を戦って、イギリスと仲良くなり薩摩藩を近代化させてしまい、埋もれていた人材を身分に関係なく登用して富国強兵の原動力とし西郷どんを許すと素直に言えないツンデレ体質で、目出度くもないのに、花火を挙げてしまうズレた人です。こんな幕末不思議ちゃん、ひさみちゅを好きになってはいけません。

 

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西郷どん

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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