江戸城は15世紀の後半に太田道灌によって築城された小さな城でした。
しかし、1590年、秀吉の命令で徳川家康が入ると次第に整備され、
江戸幕府が開府されると、60年に渡って各地の大名がボランティアで江戸城を
建て増ししていき、迷路のような造りになっていきました。
そんな江戸城で政治を取り仕切るのは、日頃将軍が執務する本丸表ですが、
ここに集まる大名はランクによって伺候席(詰所・執務室)が決められていたのです。
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この記事の目次
石高が高い大名は遠く、石高が低い大名は近く家康の深慮遠謀
1603年に江戸に幕府を開いた徳川家康は、室町幕府の轍を踏まないように
幕府の権力機構を巧妙に整備しました。
室町幕府では、将軍に匹敵するような力を持つ、細川、斯波、畠山のような
守護大名に管領のような副将軍機能を与えてしまった結果、、
室町将軍が病弱だったり、幼少で死ぬと求心力が低下し、守護大名同士で、
権力を巡り騒乱を起こす事例が絶えませんでした。
家康は、大きな石高を持つ外様大名は幕府の政治に関わらせずに遠ざけ
逆に家康が天下を取る前から仕えている譜代大名に10万石以下の石高を与え
老中や若年寄のような政治を扱う要職に就かせました。
こうして、外様大名は石高はあるけど幕府の政治に口出しできず、
譜代大名は政治は出来るけど石高がないので将軍を倒す事は出来ない
強弱のバランスを取った政治体制が完成するのです。
公開!ランクで違う大名達の詰所
※画像はイメージです。
江戸城の本丸には、11の伺候席、大名や旗本の控室・執務室が存在していて、
大名のランクや将軍家との血縁により分けられていました。
基本的に外様大名と親藩大名が遠く、譜代大名は将軍の執務室である
黒書院に近いという造りになっています。
それでは、11の控室に大名達がどう分けられているのか江戸城本丸の
簡単な地図を元に説明しましょう。
江戸城本丸表
激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
ナンバー⓪ 親藩大名が詰める大廊下席
史上有名な浅野内匠頭の刃傷事件があった江戸城松の廊下の奥が大廊下と呼ばれます。
将軍が執務する黒書院からはもっとも遠い位置にあります。
大廊下席は、上下に別れていて、上席に詰めているのは、徳川御三家、
尾張藩、紀州藩、水戸藩、それに徳川吉宗と徳川家重の時代に完成した御三卿、
一橋、田安、清水の三家でした。
それに将軍家の縁戚である甲府徳川家と舘林徳川家が詰めています。
ここには、尊王攘夷のカリスマ、徳川斉昭、それに息子で一橋家を継いだ
一橋慶喜が詰めていました。
一方の大廊下席の下座には、加賀藩、鷹司松平家、越前松平家、福井松平家の
4藩が詰めていました。有名なのは、開明派君主として名高い、
越前松平家の藩主、松平春嶽です。
後に徳川斉昭が天皇の許しを得ずに日米修好通商条約を結んだ井伊大老を
大廊下席の上座で詰問した時に、井伊に反論されて言い返せず、切羽詰まり
「越前を呼べ」と叫んだものの、井伊大老に「越前公は格式が違うので呼べません」と
冷ややかに返されたのは、同じ大廊下席でも斉昭と春嶽では上下で別れ
詰所が違っていたから起きた事でした。
ナンバー① 大広間席
大広間席は、松の廊下を挟んで、大廊下席と相対する位置にありました。
ここに詰めるのは官位が従四位以上で国を持っている大名です。
幕末で有名なのは、薩摩藩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城、筑前藩の
黒田長薄、長州藩の毛利敬親などが含まれます。
幕末で最強の軍隊を保有した佐賀の鍋島直正や、土佐の山内容堂も
こちらの大広間席に詰めていました。
松の廊下を挟んで対角線にある大廊下席の大名と合わせて、
幕府を揺り動かすサイドに立ったのが、この二つの伺候席でしょう。
ナンバー② 帝鑑之間席
帝鑑之間は、幕府成立以前から徳川氏に臣従していた大名が詰める席です。
この席に詰める大名を幕府では譜代大名(「譜代席」)と呼んでいました。
つまり、大廊下席や大広間席の外様や親藩大名とは正反対の徳川家子飼いの大名です。
ただし、すべてが譜代というわけではなく、親藩や外様大名から願いにより
この席に移った大名(御願譜代)や新規取立ながら家格向上により
この席に移った柳沢氏などの例外もあります。
譜代でも父親が重職者の場合には嫡子は雁之間に出る事になります。
ここは、大きくても15万石、小では1万石の譜代大名が詰めますが、
能力のある人物は抜擢されて老中になり溜之間に移動します。
幕末のイケメン老中、安倍正弘の備後福山藩、佐倉藩の
蘭学大名の堀田正睦が出てきています。
ナンバー③ 菊之間席
菊之間席は、菊間縁頬ともいい、幕府成立後新規取立の大名の内で石高が小さく
城を持たない者が詰める席で旗本役である大番頭、両番頭、旗・鑓奉行武役の
伺候席になっていました。
ナンバー④ 御目付部屋
若年寄の支配下にあった目付は、この部屋に詰め、老中の支配下にあった
大目付は芙蓉之間に詰めていました。
目付というのは、御家人・旗本の品行や仕事ぶりを監視する役職であり、
定員は10人役高は1000石で若年寄の配下にありました。
代々、有能な人物が任命され、老中や将軍に対して政策の拒否権を持ち、
ここを務めて、遠国奉行、町奉行から勘定奉行へ栄転していきました。
ここからは、幕末有名な勘定奉行、小栗上野介忠順が出ています。
ナンバー⑤ 雁之間席
雁之間は、幕府成立後に新規に取立てられた大名の中でも
城主の格式をもった者が詰める部屋で老中や所司代の後継ぎもこの席に詰めます。
譜代大名でも中堅所の大名が勤める伺候席でした。
雁之間詰め大名は「詰衆」と呼ばれ、他の席の大名と違い毎日登城するため、
幕閣の目に留まりやすく役職に就く機会が多かったようです。
そのため、出世を望んで帝鑑間からこの席への移動を望む大名も多くいました。
伺候席の雁之間と菊間広縁を総称して「雁菊」と呼びます。
ナンバー⑥ 芙蓉之間席
寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、駿府城代、奏者番、
または遠国奉行などが詰めていました。
いずれも、将軍を代理して行事を務めるなどエリートでした。
ナンバー⑦ 溜之間席
溜詰席は、黒書院溜之間と言い将軍の執務空間である黒書院に最も近く、
徳川家の臣下に与えられた最高の伺候席です。
代々が溜之間詰めになる家柄は、松平容保を出した会津藩松平家、
大老井伊直弼を出した彦根藩井伊家、そして、高松藩松平家の三家があります。
この三家を常溜・代々溜と言い幕府の政治に大きな影響を与えました。
一代に限って溜間に詰める大名家は飛溜といい、伊予松山藩松平家、
姫路藩酒井家、忍藩松平家、川越藩松平家などがあり、
さらに老中を永年勤めて退任した大名が名誉職の形で一代に限って
溜間の末席に詰めることもあってこれを溜詰格と言いました。
溜之間席は、初期の定員は4~5名であり、重要事については
幕閣の諮問を受けることになっていました。
また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっており格式は
非常に高く、譜代大名が最期に求める憧れの席です。
しかし、最初は4から5人だった溜之間のメンバーは江戸中期以降、
一代限りの飛溜の大名も代々詰めるようになっていきます。
さらに、桑名藩松平家、岡崎藩本多家、庄内藩酒井家、越後高田藩榊原家も
ほぼ代々詰めるようになり、幕末には定員が15名近くと3倍に増加し
その希少性も薄れてしまい、本来の択ばれたエリートの趣旨は形骸化しました。
ナンバー⑧ 御祐筆
文書・記録の作成など現在の書記にあたる地位、祐筆が詰めました。
表右筆と裏右筆がそれぞれ別にあり、奥右筆は機密書類なども扱いました。
ナンバー⑨ 御用部屋
大老や老中、若年寄がこの御用部屋に詰めて最高会議を行っていました。
今でいえば内閣という事になるでしょうか
幕末でも、安倍正弘や堀田正睦、井伊直弼、安藤信正、等々の錚々たる
メンツがここに詰めていた事になります。
ナンバー⑩ 桔梗之間
御番医師の詰所で将軍の専属医が詰めていました。
名前の由来は襖に桔梗の花が描かれていた事によります。
幕末ライターkawausoの独り言
江戸城オフィスに勤める大名達の詰所・執務室、伺候席のランクを解説してみました。
これを見ると、徳川幕府における大名のイス取りゲームの縮図が分かります。
外様大名、島津や毛利、鍋島家等は将軍の居所まで遠く、譜代大名の彦根井伊家、
会津松平家などは、将軍の居所に近くなり、それぞれの政治スタンスも、
倒幕から幕権強化まで綺麗に色分けされています。
江戸城では権力を巡る壮大な部屋取りゲームが繰り広げられていたのですね。
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