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阿部正弘とはどんな人?絶対倒れないヤジロベー政治家に迫る

2018年3月11日


 

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日本の歴史には、2つのタイプのリーダーが出現します。一つは徳川家康(とくがわいえやす)に代表されるバランス型のリーダー、もう一つは織田信長(おだのぶなが)に代表される独断専行型のリーダーです。しかし、事業が上手く行くのは圧倒的に前者の方に限られ、後者は大抵の場合志半ばで政変により倒れてしまう運命を背負います。

 

日本人は後者のリーダーが大好きでバランス型リーダーを優柔不断と嫌いますが実際に織田信長のようなリーダーが出現すると恐怖し排斥するのが常です。幕末のイケメン老中、阿部正弘(あべまさひろ)はまさにバランス型のヤジロベーでした。今回は日本人が嫌いながら信頼を寄せる究極のバランス型、阿部正弘に迫ります。そこには、いまだに日本人がハマり続ける民族的欠陥もありました。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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立つ筈ない両者の顔を立てる日本型宰相、阿部正弘

 

阿部正弘は1819年に生まれ、17歳で隠居した兄に替わって家督を相続、譜代大名の名家、備後福山藩(びんごふくやまはん)の7代藩主として江戸城に入りました。1838年には、奏者番(そうしゃばん)として幕府のエリートが詰める芙蓉之間(ふようのま)詰めになり、1840年には21歳で寺社奉行になります。ここで、阿部は最初の忖度(そんたく)、もといバランス感覚を発揮する事になります。それは、徳川家(とくがわいえなり)時代に繁栄の限りを尽くした感応寺(かんのうじ)を破却する事でした。

 

 

 

感応寺の住職日啓(にっけい)という僧侶は、坊主ながら弁舌と政治力を持つ野心家で娘の美代(みよ)をオットセイ将軍と呼ばれた11代徳川家斉の側室にする事に成功。1836年、美代に惚れこんだ家斉は、美代にねだられるままに感応寺を建立。美代を通じて、実父の日啓も引き立てられるようになります。

 

日啓は権力を握り感応寺は拡充され、門前町が出来る繁栄を示しまた、大奥からは大勢の女性が祈祷を理由に感応寺に参詣し、若い坊主と乱交に及び、その中には日啓も息子の日尚(にっしょう)もいるという堕落ぶりでした。しかし、感応寺ならぬ官能寺の栄光も大御所家斉が生きている間だけでした。家斉の死後に、やっと実権を握った12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)は感応寺を調べるように老中、水野忠邦(みずのただくに)に命じ、これは寺社奉行の阿部正弘の担当となります。

 

真面目で熱血な寺社奉行なら「喧嘩両成敗、前政権の膿を出せ!」とばかり大奥も感応寺にも厳しい処罰を下すでしょう。ですが、バランス型の阿部は大奥の処罰を派手に行うと大奥に疎まれますしまた、大奥の風紀の紊乱(びんらん)は、結局、現将軍徳川家慶の恥になる事を知っており阿部は感応寺を破却し、日啓、日尚や美代の方を処罰する一方で、大奥の処分は最低限度に留めました。

 

 

 

背徳の罰に震える大奥女性にとり、阿部の穏健な処分は菩薩(ぼさつ)にも見えたでしょう。後の阿部正弘の異常とも思える大奥人気は、この感応寺の始末にあったと思います。そして将軍家の威信にも傷をつけない絶妙な裁きは、12代将軍家慶の眼鏡にも適い25歳の若さで老中に昇る切っ掛けにもなるのです。こういうのを玉虫色の決着と言いますが、誠に日本的な忖度の手法で阿部正弘は老中の地位を掴んで宰相となるのです。

 

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和を以て尊しと為す、前代未聞のパブリックコメント募集

 

阿部正弘と言えば、それまでの政治は幕府の独占物という不文律を破り、最初は諸大名から国防問題に関する意見を募集し、次にはそれを市井の庶民にまで広げパブリックコメントを募集した人として知られています。これなどは、いかにも革新的に見えますが、実はとても日本的な考え方なのです。

 

聖徳太子

 

聖徳太子(しょうとくたいし)の十七条憲法の1には、和を以て尊し(たっと)と為す(いさか)ふること無きを宗とせよとあり一方の意見に偏って、争いを起こす事は宜しくないから広く意見を聞いて採用なさいという意味だと解釈されています。

 

10人の言葉を同時に聞くことができた聖徳太子

 

現代の日本社会でも、パブリックコメントは金科玉条のようなもので、極端な例では、パブリックでデザインが決定した高齢運転者用のステッカーが「枯れ葉みたいで高齢者を馬鹿にしている」と、いちゃもんがついて撤回され再びパブリックデザインが募集されて改訂される程に、「和を以て」が大好きです。とにかく、全体に意見を求めておけば波風が立たないと阿部は考えたのでした。

 

実際、意見書を元に貧乏御家人の勝海舟(かつかいしゅう)などは登用されていますから、阿部のパブコメ募集は、全く無駄というわけでもなかったのです。現在でも有識者を集めて、何十回、何百回とうんざりする程に会議を繰り返し熟議の結果と言えば、アレ?と思うような結論でも大抵の人は納得しますからね・・和を以て尊しという価値観は、日本人が大好きな考えなのです。

 

 

 

しかし、その副作用として、それまで幕府の決定に唯々諾々と従っていた外様大名や市井の庶民までが「自分達は政治に口を出してよいのだ」と意識変革を起こし結局、幕府の寿命が縮まるのは仕方がない事でした。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

 

攘夷派と開国派に頼りにされる?絶対倒れない弥次郎兵衛宰相

 

阿部正弘が水野忠邦を排斥して老中首座に座った1845年は激動の時代でした。すでに1840年に勃発したアヘン戦争で清はイギリスに敗れ、多額の賠償金を課せられ各地の港を開港していました。これを受けて、幕府も異国船打ち払い令を緩和するなど大わらわでしたが、その中で阿部正弘は、幕府250年の不文律を破り、幕府が持っている外国情報を全国の大名に開放して国防についての意見を求めると共に、海岸防御御用係(かいがんぼうぎょごようがかり)を常設します。

 

 

 

このような阿部の考えは、友人だった薩摩藩世子、島津斉彬(しまづなりあきら)の進言がヒントでした。すでに琉球を通じて国際情勢を掴んでいた斉彬は幕府が独占する情報の開示を求め全国の大名に国防についての危機意識を共有してもらうべきだと説いたのです。

 

「和を以て」が大好きな阿部正弘は、アイデアに飛びつき家康以来の掟を反故にします。たかだか300年の家康の遺訓(いくん)より1200年続く聖徳太子以来の「大事な事は皆で考えよう」の方が波風を嫌う阿部には魅力的だったのでしょう。

 

 

さらにここで、阿部正弘は驚くべき起用を行います。公然と攘夷(じょうい)を唱え外国など武力で追い払えと主張する水戸藩の徳川斉昭(とくがわなりあき)と、攘夷は時期尚早であり、今は開国し貿易を盛んにして日本を強くすべきと主張する薩摩藩の島津斉彬を同時に登用したのです。

 

水戸藩と薩摩藩は、いずれも領地に海岸線を持ち太平洋に接していて早くから外国船の寄港があり防衛体制の強化に熱心な藩でした。ところが、外国に対する考えは徳川斉昭は尊王の観点から打ち払えであり、島津斉彬は現実的な観点から開国はやむなく、力を蓄えるべしと正反対でした。阿部正弘はこの開国と攘夷の代表のような二人と仲が良く、この後も引き立てていく事になるのです。どうしたって両者を立てられる問題ではないのですが、阿部正弘は驚異の日本的なバランス感覚により、両者を政権内に留めるのです。

 

 

支離滅裂だが結果は丸く収まる日米和親条約狂騒曲

 

攘夷派と開国派、正反対の二つの派閥を抱え込んだ阿部政権は複雑怪奇(ふくざつかいき)な政権運営を余儀なくされる事になります。特に、1854年の日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)の締結で、それは最高潮に達します。阿部正弘は、アメリカに攘夷する事は現実的には不可能として開国派の松平乗全(まつだいらのりやす)松平忠優(まつだいらただます)に日米和親条約の締結を指示します。しかし、これに攘夷派の徳川斉昭が猛反対し海防掛参与を辞職しました。

 

 

 

普通の宰相なら、「見解の相違だから仕方ない」で切り捨てて終りですが、阿部は、この事態を憂慮し斉昭に戻ってきて欲しいとアピールかくして斉昭の圧力で、阿部は条約調印の功労者、松平乗全、松平忠優をクビにしてしまうという支離滅裂な人事を行うのです。これで気を良くした斉昭は新設の軍制改革参与に任じられホクホク顔逆に黙っておれないのは条約調印で活躍した開国派でした。

 

 

「あんたの命令通りに動いてきたのに、褒美どころかクビとは何だ!やってられるか、こんちきしょう!!」

 

このように、開国派の多い老中連が猛反発、特に徳川譜代の筆頭彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)が阿部に離反した事は痛恨打になります。老中首座の阿部正弘は孤立し、いよいよ政治生命も終りかと思いきや阿部は佐倉(さくら)藩主で蘭癖(らんぺき)大名と名高い、開国派の堀田正睦(ほったまさよし)を老中首座に据えて自身は老中首座を降りて、平老中になる事で事態収拾を図るのです。

 

 

「私のやり方は間違っておりました、悪うございました。この通り、自ら降格人事を受けるので勘弁して下さい」

 

このようにして、プライドを傷つけられた開国派も一応治まりなんだかんだで日米和親条約締結という果実だけが残ったのです。大臣同士が喧嘩ばかりしているのに、懸案事項は知らぬ間に解決するという、誠に日本的な解決方法を阿部は実行していたのでした。阿部は、老中首座を退いてから体調が悪化し、消化器系の癌で39歳の若さで1857年8月6日に死去しましたが、一度も政治の中枢から追い払われず抜群のバランス感覚を維持して老中在任のまま死去したのです。

 

攘夷派の面子を立てる為の無意味な大事業

 

私達から見ると、腰の定まらない八方美人に見える阿部正弘ですが、彼は、開国派からも攘夷派からも個人としては好かれていました。あの好き嫌いの激しい(やかま)し屋の斉昭でさえ、「阿部がいなくては何事も進まぬ」とボヤいている程でした。時々、裏切られ辞職までしたのに、どうして斉昭は阿部に好感を持つのか?それは安部正弘が相手の面子だけは何とか立たせる人だからでした。その面子立ての顕著(けんちょ)な例が江戸湾の防衛計画でした。

 

ペリー(幕末)

 

1853年に浦賀にペリーが現れてから、阿部正弘は急遽(きゅうきょ)江戸防衛に舵を切り、自身が登用した川路聖謨(かわじとしあきら)江川英龍(えがわひでたつ)に江戸湾を防衛する為の台場の建設の為現地調査を開始させました。

 

 

調査の結果、二人は江戸湾の防衛には九つの砲台が必要で、その造営事業に1500万両という巨額の予算を計上しました。この金額は幕府の歳入の16倍という大金で、ただでさえ金がなく小判の改鋳で一息ついている幕府に出せる金ではありませんでした。

 

出来ないならやらない決断しかないわけで、別の方法を検討するのが政治ですがなんと!阿部正弘は江戸湾防衛計画を大幅に縮小した上で着手します。全く防衛の常識を外れた話で、役に立たないお台場を建設させると言うのです。

 

これには江川英龍も怒り、「こんな防衛計画は竹に縄をつけて品川沖に置いたも同然である」と不満をぶちまけています。結果、縮小された江戸湾防衛計画は75万両の巨費を費やし川路聖謨の指揮の元で、5つの台場を造った所で終結しました。

 

 

では、どうして阿部正弘は役にも立たないお台場を造ったのでしょう。彼が防衛音痴であり、防衛のイロハも分からない人間だった為?いいえ、それは攘夷を唱える徳川斉昭の面子を潰さない為でした。75万両という単年度の年貢収入を上回る無駄遣いは、徳川斉昭を始めとする海防掛や攘夷派の面子を立てる為に敢えて行われたのです。

 

自分の為に、ここまでしてくれた阿部正弘に対し徳川斉昭が憎からず感じていたのは、当然だと言えるでしょう。また、阿部正弘は出来もしない異国船打ち払い令の復活を何度か検討し、海防掛に諮問(しもん)していますが、すべて現実的ではないと拒否されています。これも斉昭のような攘夷派に対するパフォーマンスでした。

 

無駄な台場に使った75万両は徳川斉昭の機嫌を取るのに高いか安いかですが、阿部正弘の死後、大老井伊直弼と対立した斉昭は、幕政から離れ、直接朝廷に働き掛けて天皇の政治利用に舵を切りました。これを長州藩や薩摩藩が模倣して、結局は天皇は錦の御旗となり、徳川幕府を倒す正当性を担保するのですから75万両で徳川斉昭を繋ぎ止めた阿部の決断は、不当に高くついたとはいえないでしょう。

 

 

阿部正弘の本当の姿とは?

はじ三倶楽部 スマホの誤変換でイライラする参加者(はてな)

 

では、阿部正弘とは、ただ日本型のバランス政治を熟知しただけの弥次郎兵衛宰相だったのでしょうか?kawausoはそうではないと考えています。それは、阿部正弘が人材登用においては面子にこだわらず身分に拘らないという方針を貫いたからです。阿部が登用した人材は、、筒井政憲(つついまさのり)戸田氏栄(とだうじひで)松平近直(まつだいらちかなお)、川路聖謨、井上清直(いのうえきよなお)水野忠徳(みずのただのり)、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震(いわせただなり)、勝海舟、大久保忠寛(おおくぼただひろ)永井尚志(ながいなおむね)高島秋帆(たかしましゅうはん)等と多岐にわたり、ジョン万次郎は土佐の漁民の子でした。

 

 

いずれの人物も、後世から高い評価を与えられていて、阿部がただのバランス型の宰相ではなく、しっかり人を見抜く確かな目を保有していた事の証拠と言えるからです。

 

政治家阿部正弘を全否定する人でも、人材登用の確かさでは否定できない程に阿部の登用した人材は日本の歴史に欠くことの出来ない役割を果たしているのです。そこには、阿部の表には出さなかった思想が透けて見えます。本当の阿部は、日本型のバランス政治、面子の立て合いではなくそんなしがらみに左右されない政治を志向していたのです。

 

ですが、阿部の生きた時代の幕府は硬直化していてそれが不可能でした。阿部の前の老中首座、水野忠邦(みずのただくに)天保(てんぽう)の改革で独断専行を行いますが、反発が殺到して、味方にも裏切られ彼を登用した、12代将軍の家慶も手の平を返して水野を失脚させました。しまいには、老中を辞めた水野の家を暴徒化した江戸庶民が襲撃したそうです。

 

それを間近に見ていた阿部が、しがらみに囚われない政治は、不可能だと悟り、むしろ日本的なバランス型政治に特化したのは仕方のない事でしょう。だからこそせめて、自分が登用した人材には、しがらみに囚われず面子ではなく政治の実を挙げて欲しいと能力主義を貫いたのではないか?kawausoにはそのように思えるのです。

 

 

阿部正弘を笑う事など出来ない、今でも続く面子政治

国会議事堂

 

阿部を節操がない弥次郎兵衛宰相と批判するのは簡単ですが、実際、現代日本の政治や社会は、八方美人の面子主義を克服しているでしょうか?本当に社会の為になる政策を行おうにも、敵対者や既得権益(きとくけんえき)に遠慮し不必要な忖度をして行った結果、有益な政策も骨抜きにされ、施行してみれば非難轟々(ひなんごうごう)というのはよく聞く話です。

 

有能な人は抜擢されず、上役の意に沿うだけのろくでもないプランを出す空気を読むのだけが上手な無能な社員が持てはやされ、大赤字を出しても上役に気に入られる限りは更迭もされず、いつまでも必要なプランが打てないまま会社の首が締まるというのは、今でも、どこでも見る事が出来る光景でしょう。阿部は八方美人のヤジロベー宰相でしたがその着地点では日本の将来を考えた人でした。現代の日本人は、そもそも八方美人の面子の立て合いだけで、阿部のようにその先に、本当に日本の為になる事を行っているでしょうか?

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

阿部正弘は学問の奨励に熱心で、江戸と国元の福山藩に誠之館を開いて国学、洋学、医学、兵学、算術、鉄砲術、砲術などを教えると共に庶民にも特別に入学を認めたり、身分に関係なく卒業成績順に役職を与える仕進法などを制定して能力主義を貫いています。

 

また、誠之館の開校の時に阿部正弘が書いた直筆の訓諭書には、

 

「すべて人として生まれたなら、人としての道理を尽くす事は当然であるので、文学や儒教の教えに基づいて平生から心構えや志をしっかり持ち武術をきわめて万が一に備え文武両道に励みなさい」とあります。

 

なんと武士でもなく人として生まれたならで始まっています。ここにも身分ではなく能力で人材を登用すべきという阿部正弘の思想が見えます。阿部に登用されて貧乏御家人からの出世の糸口を掴んだ勝海舟は、

 

「阿部伊勢守は、水野がやりちらかした後を受けたから、よく分かった人であった」と回顧しています。有能だったではなく、よく分かった人であったというのが海舟らしい評価です。阿部正弘は、硬直化した幕府政治をよく分かった人であり、それに最も適応した弥次郎兵衛宰相として生きて死んだのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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