島津斉興は、幕末の開明派の名君と高く評価された息子の島津斉彬と対立し、あまり評価が高いとは言えない人物です。史実でも息子の書いた「ケツの穴が小さい、小物」というような文章が載っていたりします。しかし、本当に島津斉興はケチなだけのつまらない存在で、名君となる息子を押さえつけるだけの人物だったのでしょうか。今回は、島津斉興にターゲットを当てて考察してみました。
この記事の目次
せごどん序盤のヒール島津斉興はどんな人?
NHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」では、鹿賀丈史が演じる島津斉興ですが、序盤では完全に悪役です。では、史実の島津斉興とはどんな人物だったのでしょうか。基本的には、放漫財政でどうにもならなくなっていた薩摩藩の財政を立て直すなど、大きな実績を残しています。このとき登用されたのが調所広郷です。彼は琉球貿易問題では、ひとりで罪をかぶり切腹します。琉球貿易問題は、島津斉興と斉彬の大きな対立要因でもありました。
斉興は、薩摩藩の第9代藩主・島津斉宣の側室の子どもとして生まれました。当時の薩摩藩では、藩主は父の島津斉宣でしたが、実権は前藩主の祖父・島津重豪に握られたままでした。そして、島津重豪の浪費、放漫財政により「近思録崩れ」というお家騒動が島津藩で発生します。重豪の浪費に反対する勢力の巻き返しによる政争です。
この結果、島津重豪は勝利。斉興の父・島津斉宣は隠居です。そこで、島津斉興は藩主となりますが、相変わらず藩の実権は島津重豪のものでした。島津重豪といえば「蘭癖」で有名でした。その浪費は薩摩藩を傾ける程です。そして、島津重豪は島津斉彬を可愛がり、彼も「蘭癖」に育て上げていくわけです。島津重豪が亡くなり、薩摩藩の実権はやっと藩主の島津斉興のものとなるのですが……そこに、残されたのは500万両という気の遠くなるような借金でした。財政的に悲惨を通り越した状況で島津斉興は藩の実権を握ってしまったわけです。
斉彬に藩主を継がせない3つの理由
島津斉興が息子の島津斉彬を藩主にしなかった大きな理由は3つあります。
・琉球(沖縄)貿易問題での対立
・斉彬が「蘭癖」であるため浪費の警戒
・島津重豪によく似ていた斉彬の性格
島津斉彬は琉球貿易を活用し、欧米諸国との交易を拡大し、薩摩藩の近代化という構想をもっていました。しかし、島津斉興からすれば、琉球貿易問題は、幕府から目をつけられ、ひとり罪をかぶって切腹した調所広郷の事件があったばかりの問題です。ここで、目立つことなどしたくなかったのです。
このとき、島津斉興は朝廷からもらう位をひとつ高くしてほしいと望んでいました。当時の藩主という立場で考えれば、家柄、家格を上げるためにも普通にある考えです。そのためには、下手に幕府に目をつけられるような行動などできるものではなかったのです。琉球貿易問題はそのような形で、父子の対立要因になっていきます。
そして、財政の問題です。島津斉昭は、調所広郷(調所笑左衛門)を登用して、ほぼ返済不能と思われた借金500万両を、無利子で250年の分割払いという無茶を押しつけ解決します。その代わりに商人に専売特権などを与えるなどしてはいます。また、藩の産業復興にも取組み、財政の立て直しに成功し200万両の蓄えを得るまでになっていました。ここで、斉彬が藩主になれば、また浪費を開始し、藩財政を滅茶苦茶にする可能性を島津斉興は想定せざるを得ません。なにせ、島津斉興にとっては、恨み骨髄の存在である祖父・島津重豪に島津斉彬がそっくりに見えたのでしょう。
実際に斉彬は島津重豪に可愛がられていました。性格的にも相容れる存在ではなく、お互いをボロクソに言っている書状がいまでも史料として残っています。
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せごどんの珍場面ロシアンルーレットは本当?
NHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」に出てきた「ロシアンルーレット」はエンタメの上での演出であり、史実的にはあり得ない嘘です。ドラマは面白ければいいのですから、それはそれでいいのですが、薩摩藩には「ロシアンルーレット」よりも狂った風習があった可能性があります。それが「肝練り」という精神鍛練法です。私も最初に知ったときは「ギャグか創作じゃないか?」と思ったほどです。
弾を込め、火縄に着火した火縄銃を天井から縄で吊るします。この、火縄銃はクルクルと回転していくわけです。そして、その回転する銃口に正対するようにして、クルリと薩摩藩士たちが、座っているという具合です。
鉛玉が詰まって、火のついた火縄銃が自分の方に銃口を向ける瞬間が必ずやってきます。そのとき、ドカンといけば、普通死にます。完全に狂気の産物です。これを薩摩藩では精神鍛練法としていたという史料が残っているのです。その史料である「甲子夜話」についても史料評価が十分かどうかというと疑問が残らないわけでは無いですが、少なくともそのような狂気の鍛練法が「島津藩ならあってもおかしくない」と思われていたことは確実でしょう。
斉興を演じる鹿賀丈史さんはどんな大河に出た?
島津斉興を演ずる名優・鹿賀丈史さんは、過去にも3回大河ドラマに出演しています。1978年に放送された「黄金の日日」ではキリシタン大名の高山右近。1983年に放送された「徳川家康」では徳川家康に反旗を翻した関ヶ原の合戦の主役である石田光成。
1990年に放送された「翔ぶが如く」では明治という時代を作った大政治家である大久保利通。そして「西郷どん(せごどん)」では4回目の出演となります。どの役も時代の中で重要な役割を果たした人物です。島津斉興も、息子・島津斉彬との対立ゆえに、あまり評価は高くないですが、薩摩藩における財政再建の手腕、人材の抜擢など決して無能な人物ではなく、薩摩藩にとっては名君であったと言っても良い存在です。名優にして怪優でもある鹿賀丈史さんが演じる島津伊斉興と、世界のケン・ワタナベが演じる島津斉彬の対決は大きな見どころでもあります。
断言!斉興がいなければ明治維新は無かった
そもそも、島津斉興という存在が無ければ、島津斉彬は身動き一つとれなかったでしょう。そしてそれは明治維新そのものが無かった可能性すら生み出します。斉興は500万両の借金を抱えた薩摩藩を引き継ぎました。それを立て直し200万両の内部留保金を作り上げた手腕が無かった場合、後を継いだ島津斉彬の集成館事業の原資はどこにもありません。武器購入しようにも資金はありません。
薩摩藩は日本の南の果てで困窮に喘ぎ、島津斉彬はまずはその建て直しから手を付ける必要があったでしょう。そうなれば、明治維新そのものがどうなっていたのか分かりません。幕末に薩摩藩を主導した島津斉彬が明治維新の起点を作りだしたとすれば、その起点が無くなってしまうのです。もし、島津斉興がおらず、また彼の財政再建がなければ、明治維新のない歴史がそこに生まれていた可能性もあるのです。
藩を重視した斉興、日本を重視した斉彬
島津斉興も名君です。暗愚ではありませんでした。薩摩藩の財政を立て直した手腕は見事です。多くの藩が財政に苦しみ困窮していたことは事実です。であるからこそ、明治期の廃藩置県という改革はスムーズにできたのです。藩財政を立て直すというのは並大抵の手腕でできることではないのです。しかし、「薩摩藩」の政治という部分が島津斉興の限界もでもありました。500万両の借金背負わされたら、他のことなど考えている余裕もありませんので、資質というより置かれていた状況が「藩以外」の事を考えさせなかったのかもしれません。
一方で、島津斉彬は江戸暮らしが長く、西洋事情に通じることのできる立場にいました。また、曾祖父の西洋オタクの島津重豪に可愛がられ、自身も西洋文明にのめり込んで興味を持って行きます。「ふたつビンタ」(頭がふたつある=頭がいい)という異名を幼少期に持った斉彬の資質もありますが、その育った環境も、斉彬を薩摩藩だけに閉じ込めず、広く日本を見ることができる環境に合ったともいえます。
藩財政を重視し、藩の事に全力をかけなければいけなかった父・斉興。そして、日本という国家を意識できる立場にあった息子・斉彬。ふたりとも名君であったのですが、資質以上におかれた環境も大きく違っていた点は見逃せないでしょう。
幕末ライター夜食の独り言
島津斉興は、江戸時代的な価値観でいえば、傑出した名君であるといっていいでしょう。江戸時代、経済構造が大きく変化する中で、藩財政を立て直すことの出来た藩主は稀有な存在です。しかし、息子の開明的な名君で、明治維新への道を切り開いたともいえる島津斉彬と対立したことで、歴史的な評価や、フィクションの中では敵役になることの多い人物となりました。
ただ、島津斉興には彼自身の政治的立場もあり、その中で十分に手腕を発揮した人物です。彼の手腕がなければ、島津斉彬も、頭に描いた計画を実行することができなかったかもしれません。その意味で、島津斉興も明治維新に貢献した人物のひとりであると言えるのではないでしょうか。
激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」