2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公井伊直虎から井伊直政に家督を譲ります。
井伊直政は関ケ原の戦いで活躍し、初代彦根藩主になりました。
彦根藩は代々井伊家で、江戸幕府で将軍を支える役職に就きます。
幕末には井伊直弼が大老に就きます。
井伊直弼といいなおとらは時代が異なりますが、意外な形で共通点があります。
この記事では、最初にいいなおとらの生涯と井伊直弼との関係について取り上げます。
次に、井伊直弼が彦根藩主になった経緯について、いいなおとらと共通する点を取り上げます。
終わりに、桜田門外の変で倒れた井伊直弼と直弼の死後の井伊家について取り上げます。
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この記事の目次
井伊家断絶を救った女性 いいなおとらとは?
『井伊直弼は井伊直虎の子孫なのか?大河をまたいで続く井伊家』で、
いいなおとらについて紹介しました。
遠江国(現在の静岡県)井伊谷の城主・井伊直盛の娘として生まれました。
生年については不詳ですが、1582年に死亡したと言われています。
当初、直盛には男子がいなかったため、従兄弟の井伊直親を婿養子に迎える予定でした。
しかし、直親の実父・直満が今川義元への謀反を疑われたため、直親は身を隠すことになりました。
婿養子を迎える予定が白紙になりました。いいなおとらは出家し、次郎法師と名乗りました。
身を隠していた直親が遠江国に戻り、直盛の跡を継ぎますが、今川氏真に暗殺されます。
直親には男子がいましたが、直親の子どもは幼かったため、誰も跡を継ぐ人がいませんでした。
井伊家の断絶を避けるため、出家していた次郎法師が還俗して、
いいなおとらと名乗り、井伊直親の跡を継ぎます。
いいなおとらは女性で、生涯独身で子供がいなかったため、
成人した直親の子・直政を養子として迎えます。
直政が成人するまでの間、井伊谷の城主となりました。
井伊直弼といいなおとらとの関係性は?
『井伊直弼は井伊直虎の子孫なのか?大河をまたいで続く井伊家』で
井伊直弼といいなおとらとの血縁関係について取り上げました。
いいなおとらは生涯独身で、子供がいなかったため、直親の子直政を養子として迎えました。
直政が関ケ原の戦い後に彦根藩主になってから直弼までの代で、
血縁関係のある藩主の実子以外が継いだ事例があります。
井伊直弼といいなおとらの間に直接の血縁関係はありませんが、
何らかの形で血縁関係にあると考えられます。
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奇跡の家督相続で彦根藩を継いだ井伊直弼
『井伊直弼は井伊直虎の子孫なのか?大河をまたいで続く井伊家』で、
井伊直弼は彦根藩主井伊直中の14男として生まれましたと書きました。
14男ということで、後継ぎになる可能性が低く、
部屋住みとして17歳から32歳まで彦根城と濠を挟んだ
埋もれ木の舎という小さな屋敷で過ごしました。
井伊直中の後を継いだ直亮には子供がなく、
直亮の弟の直元が跡を継ぐことが決まっていましたが、相続する直前に死亡します。
このため、急遽部屋住みだった直弼を養子にします。
このようにして井伊直弼は彦根藩主になりました。
いいなおとらと井伊直弼は家督相続の可能性が
ほとんどなかったという点で共通していると言えます。
跡を継ぐ人がなかったので急遽跡を継ぐことになり、断絶の危機を救いました。
桜田門外の変で倒れる井伊直弼
井伊家は直虎の代で一度断絶しています。
『井伊直弼と井伊直虎家督相続で苦労した二人の共通点』では、
今川氏真は武田信玄との戦いが起こったとき幼い井伊直政の命を狙うことを取り上げました。
直政は無事逃げることができましたが、井伊家の領地は小野政次に取られます。
無事に逃げ切った後、直政の母・ひよは松下清景と再婚し、松下家の養子として過ごしました。
一時的に井伊家は断絶することになりました。
1567年、徳川家康が今川領だった井伊谷を攻めて小野政次とその子供らを処刑します。
一時断絶していた井伊家にとって転機となり、直政は家康に取り立てられ、
井伊谷の領地を与えられます。このようにして、井伊家が井伊谷で再興することができました。
直政が初代彦根藩主になってから、歴代の藩主が江戸幕府の役職に就きます。
歴代の老中と大老の大半が井伊家でした。家康の恩義だけでなく、
代々幕府からの信頼も得られていたことが分かります。
井伊直弼は江戸幕府の体制の立て直しと困難を乗り切るために
安政の大獄と呼ばれる弾圧を行うようになります。
この報復で井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されました。
家紋「丸に橘」のように蘇る井伊家
井伊家の家紋には橘があります。
橘は柑橘系の果物で、桃の節句でよく桃とともに飾られています。
橘には香気と雪に強い果物であることから
その生命力にあやかろうとして家紋によく使われています。
いいなおとらで一時断絶した井伊家が橘の生命力のように直政の代で蘇りました。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されてからの井伊家について取り上げます。
直弼の暗殺後、井伊直憲が跡を継ぎました。
直憲の代で安政の大獄に対する専横が咎められ、減封処分を受けました。
戊辰戦争が始まると、鳥羽伏見の戦いでは新政府側につきます。
新政府側についたことで直憲は叙勲を授けられました。
直憲の子孫には彦根市長を務めた人がいます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
井伊直弼の死後の彦根藩と井伊家についてあまり注目されませんでした。
安政の大獄の反動で、一橋派の弾圧を受けた人が復帰すると減封処分を受けます。
処分を受けたため、戊辰戦争では江戸幕府を見限り、明治政府の側につきます。
その後の井伊家について、彦根市長を務めるなど直政の代から、
何らかの形で彦根と縁があるような印象を受けます。
現在の井伊家の人と彦根との関係について注目したいと思います。
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