武田騎馬軍団の強さの秘密!どうして武田では騎馬が有名になったのか?

2020年11月22日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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真田丸 武田信玄

 

武田信玄(たけだしんげん)と言えば、武田騎馬軍団です。

 

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

最近では、武田騎馬軍団については、存在しなかった説も多いですが、長篠の戦いでは馬防柵(ばぼうさく)が使われている事から、周辺の大名に武田の騎馬が一定の脅威を与えていたと考えられます。

 

でも、そもそも、どうして武田というと騎馬なのでしょうか?そもそも、他の戦国大名にも騎兵は存在していたのに、どうして武田騎馬隊ばっかりがクローズアップされるのか?

 

今回は、そんな事を解説してみます。

 

甲斐は古墳時代から名馬の産地

汗血馬を手に入れる李広利

 

野生の馬は、アジア、アフリカの一部に分布し、生息地は温帯の草原からサバンナ、乾燥した半砂漠で繁殖しています。甲斐である現在の山梨県は高地であり、富士山麓(さんろく)と八ヶ岳(やつがだけ)山麓と甲府盆地という広大な草原が広がり、馬の生息に適した環境でした。

 

白馬義徒(動物)

 

日本には、古墳時代の4世紀から5世紀にかけて、大陸から馬が伝来し、大型古墳を造成した首長層(甲斐国造(かいのくにみやっこ))に馬が受け入れられたと考えられています。実際4世紀後半代の馬歯が出土し、その裏付けがなされました。

 

中国の南船北馬のように、日本では、東国に馬の産地が多くて騎馬に長じており、西国は船の扱いに長けていたそうで、東国の甲斐は古くから騎馬の産地だったようです。

 

古くから騎兵がいた甲斐

騎射の術に長けた騎馬兵士

 

西暦672年に発生した壬申(じんしん)の乱では、大海人皇子(おおあまのみこ)サイドの軍兵として姓名不詳の甲斐の勇者(かいのたけきひと)という騎兵が登場し、大友皇子(おおとものみこ)サイドの武将である廬井鯨(いおいのくじら)を弓で射たそうです。

 

甲斐の勇者は、甲斐の地方豪族層の出身と考えられ、飛鳥時代(あすかじだい)にすでに騎兵が甲斐に存在していた証拠と考えられます。

 

簡単に騎兵と言っても、それらを編成するには、騎馬を繁殖させ、面倒を見て訓練し、必要な時に戦場に出せるような技術者がいないといけません。また、馬を操作する馬具を作成する鍛冶の集団も必要で、甲斐にはそれらの要素が全て揃っていたのでしょう。

 

甲斐は騎兵を編成できる馬飼育の最先端地域だったのです。

 

はじめての戦国時代

 

坂道に強い木曽馬

祁山、街亭

 

武田騎馬隊の中核を為した馬は、木曽馬(きそうま)と考えられていますが、この木曽馬は、山間部で飼育されたために足腰が強く頑強です。木曽馬は、体の構造も後肢(うしろあし)がx状で蹄(ひづめ)が外向姿勢になっており、横への踏ん張りが効き。山の斜面の移動も苦になりません。

 

また、木曽馬は盲腸の長さが洋種馬に比較して30㎝ほど長く、太さも2倍あり、草のみでも飼育が可能です。これらの木曽馬の特徴は高地の山国で、土地がやせている甲斐の国情にピッタリ合致していました。

 

荷駄に使われた木曽馬

馬に粘土を載せて運ぶ人(幕末時代)

 

木曽馬に限りませんが、日本の在来馬は「側対歩(そくたいほ)」と言い、前後の肢(あし)を片側ずつ左右交互に動かす変則速歩(へんそくそくほ)で移動します。この歩き方は、上下動が少ないため積み荷を乗せる事に適し、特に険しい山道での運搬には向いています。

 

このような特徴から甲斐の山間部では、荷物の運搬は、もっぱら馬の仕事であり、普段から一定数の馬が飼育されていたと考えられます。そのような馬が、合戦となると荷物の代わりに武者を乗せる事になったのでしょう。

塩に苦しんだのは馬のせい?

敵に塩を送る (武田信玄と上杉謙信)

 

甲斐国に馬が多かった理由は、甲斐が度々、塩止めに苦しんだ事からも推測できます。どうしてか?というと、馬は人の10倍の塩分が必要で、他国よりも馬を多く飼育していた甲斐では、塩不足が起きやすく、他国もそれを見越していたと考えられるからです。

 

馬の数が多いなら、その中から軍馬になる馬も多いという事になりますから、他国よりも騎兵を編成するコストが掛からないという事にも繋がります。武田信玄は、ここに目をつけて、多くの騎馬を保有していたのではないでしょうか?

 

古くから馬を食べていた

 

甲斐に多くの馬がいた理由に郷土料理にも馬肉が使われている点があります。富士山に近い甲斐では、富士登山客の荷物を運ぶために多くの馬が飼育されていて、馬肉は入手しやすくそれが、郷土料理に取り入れられたのです。

 

また、馬というと馬刺(ばさ)しですが、どうして牛や豚は生で食べられないのに馬はいいのかというと、馬は体温が40℃ほどと高く、解体した後も細菌が繁殖しにくいからだそうです。

 

馬の産地である西上野を領土に加えた

 

現在の群馬県にあたる上野国(こうづけのくに)の西上野(にしこうづけ)を武田信玄は苦労の末に、箕輪城(みのわじょう)の長野業盛(ながのなりもり)を倒し、永禄9年(1566年)から併合しています。上野国も、古くからの馬の産地であり、武田氏は西上野の国衆を傘下に加える事で、新たな騎兵を保有する事になりました。

 

こうして、武田氏は、それ以外の大名より、多くの騎兵を保有するようになった可能性があります。

 

騎兵の使い方が上手かった

武田信玄

 

日本の場合、大陸の蒙古兵のように、全ての将兵が騎乗している事はありません。騎馬兵は全体の10%もなく、それも、一枚岩ではなく、それぞれの豪族が少しずつ保有してそれらがまとまっていました。

 

騎兵の用途は、敵陣が崩れた時に、少数で突撃して敵を追い散らかす事です。つまり、負け戦では騎馬兵はあまり用がありません。

 

武田家の騎馬隊を率いていた老将・山県昌景

 

その為、広く情報収集し勝ち戦が出来る名将じゃないと、なかなか使い道を見出す事が出来ませんでした。

 

井伊直政

 

武田信玄は合戦が上手く、騎馬兵の突入を有効に活用できたので、敵の中に、武田=赤備えの騎馬隊という印象が擦り込まれたのではないかと思います。

 

武田騎馬軍団 馬場信春

 

武田騎馬隊が目立つのは、信玄の采配が上手く騎馬の出番が多くあったからで、それは取りも直さず、信玄が連戦連勝したという事なのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

どうして、武田というと騎馬なのかを様々なデータから検証してみました。

 

もちろん、信玄の騎馬隊采配の見事さもありますが、甲斐国は古くから馬の生育に向く土地で、山中の荷物の移動は坂に強い木曽馬が好まれたなど、甲斐国独自の土地柄も影響している事が分かりますね。

 

参考:Wikipedia

 

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武田信玄

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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