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井伊直弼の首はどうなった?消えてしまった首の不思議

2018年4月4日


 

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1860年、大老井伊直弼(いい なおすけ)は江戸城の桜田門外で元水戸藩士と薩摩藩士に襲撃され、死亡しました。

この事件のことを桜田門外の変といいます。この事件がきっかけで江戸幕府は衰退に向かいます。

ほとんどの人が日本史の授業で桜田門外の変後に江戸幕府が終わったと勉強したと思いますが、

事件後の井伊家の様子についてはほとんど取り上げられず、知らない人がほとんどだと思います。

 

今回は、桜田門外の変の直後の出来事で、井伊直弼の首に焦点を当てて話を進めます。

幕末の歴史好きの人の中には井伊直弼の首はどこにあるのか気になると思います。

最初に、井伊直弼の首を取った人物を取り上げ、その後辿った数奇な運命の経緯について取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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桜田門外の変で大老井伊直弼、有村治左衛門に斬られる

 

水戸藩と薩摩藩はクーデターを起こす計画を立てていたが、薩摩藩内の情勢の変化により頓挫しました。

水戸藩では前水戸藩主徳川斉昭(とくがわ なりあき)が謹慎処分を受けたことによる反発で、過激派が脱藩しました。

薩摩藩から有村治左衛門のみが、脱藩した水戸藩士と井伊直弼の襲撃に加わりました。

大老井伊直弼が桜田門外で有村治左衛門(ありむら じざえもん)に斬られ、首を取りました。

 

有村は首を取りましたが、直弼の小姓に斬られ重傷を負っていました。

記録によると、若年寄の遠藤胤統邸(えんどう たねのりてい)まで歩きましたが、歩行困難になり自害しました。

若年寄の遠藤胤統(えんどう たねのり)は14代将軍徳川家茂(とくがわ いえもち)和宮(かずのみや)の婚姻を

進めるなど幕府に信頼されていた人物で、

なぜ有村は幕府寄りの人物に井伊直弼の首を持っていったのか謎が残ります。

 

幕府の面子の為「急病」とされた直弼の首は胴と繋がれ布団を被る

 

桜田門外の変について、井伊直弼が斬られたのは3月3日の朝でした。

しかし、井伊直弼の墓に刻まれた日付や幕府の公式記録は3月27日です。

この日付の違いは幕府の面子を保つためと考えられますが、

なぜ面子を保つために井伊直弼が3月27日に死亡したという記録をつけたのか気になると思います。

 

江戸時代の幕藩体制において、

藩主が跡継ぎを決めないまま死亡すると藩は改易となり、断絶となります

井伊家は江戸幕府で大老に就任した実績を考えると、井伊家の断絶は幕府の面子に関わります。

それで、幕府は存命を装うことで面子を保とうとします。

 

彦根藩は桜田門外で負傷したという旨の届けを幕府に出します。

直弼の首と胴は繋がれていて、見舞いの使者が訪れていました。

当時の直弼の様子は病人を装っていましたが、

布団がかけられていて誰も表情を知ることができませんでした。

 

俺達尊攘派

 

井伊大老「病死」、彦根藩は存続を許される

 

井伊直弼は存命を装っていましたが、幕府から公式に「病死」と認められました。

このことにより、幕府が公式に子の直憲(なおのり)への後継ぎを認め、彦根藩は存続しました。

 

彦根藩の存続が決まった一方で、藩主を守れなかった護衛者に対して厳しい処分が下されました。

直弼を護衛していて生存していた人の中でけがの程度によって処分が異なりました。

重傷者は下野に幽閉されました。

軽傷者は全員切腹、無傷の者については全員斬首され、家名断絶が命じられました。

 

豪徳寺に埋められたはずの井伊直弼の遺体が消えた!

※写真はイメージです

 

井伊直弼の遺体はどこにあるのか気になると思います。

候補地として豪徳寺・天寧寺・天応寺が挙げられます。それぞれの寺の特徴について取り上げます。

 

豪徳寺は東京都世田谷区にあります。招き猫の寺として有名です。

井伊家の菩提寺で、井伊直弼の遺体があると言われていました。

2009年に墓が老朽化し、修繕作業を行いましたが、直弼の石室がないことが分かりました。

それで、豪徳寺は疑問が残っています。

 

次に、滋賀県彦根市にある天寧寺について取り上げます。

この寺は井伊直政(いい なおまさ)が母親の供養にために建てられました。

以後、井伊家が代々私的に利用してきました。

井伊家断絶を避けるために、直弼の血に染まった衣服など証拠となるものを隠したと考えられ、

直弼の遺体を埋葬したと考えられます。

 

最後に、天応寺は栃木県佐野市にある井伊家の菩提寺です。

この寺には直弼の遺髪と辞世の句があります。

   

水戸天狗党は彦根藩に恨みを晴らされ352人が処刑される

 

桜田門外の変と同じ年の8月に前水戸藩主徳川斉昭が病死します。

この斉昭の病死により水戸藩内で天狗党の乱が起こります。

 

天狗党の乱とは尊攘派と諸生派が対立し、幕府に弾圧された事件です。

天狗党は西へ逃れ、京を目指します。しかし京を目指す途中で加賀藩に降伏しました。

この事件で、武田耕雲斎(たけだ こううんさい)藤田小四郎(ふじた こじろう)ら352人が死罪となりました。

この死罪により彦根藩は水戸藩への恨みを晴らすことができました。

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

有村が遠藤邸ではなく、尊攘派の大名屋敷に井伊直弼の首を持っていけば、

討ち死に扱いとなり、彦根藩は断絶となった可能性が高いと考えられます。

また、天狗党は京都までたどり着けた可能性もあります。

 

有村が直弼の首を遠藤邸か尊攘派の大名屋敷に届けるかどうかに関係なく、

桜田門外の変の7年後には江戸幕府は終わっていることから、

首をどこに持っていくかはあまり関係がないと言えるかもしれません。

 

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