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橋本左内の辞世の句とは?獄中の天才の無念を読み解く

2018年4月16日


 

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橋本左内

 

幕末の英傑のひとり橋本左内(はしもとさない)は、君主の福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の側近として幕政に深く関わります。そして、将軍後継問題で大老となった井伊直弼(いいなおすけ)と対立し、安政の大獄(あんせいのたいごく)で刑死しました。その辞世の句は「二十六年、夢の如く過ぐ。平昔(へいせき)顧思(こし)すれば感ますます多し。天祥(てんしょう)の大節、(かつ)心折(しんせつ)す。土室(どしつ)なほ(ぎん)ず、正気(せいき)の歌。」というものです。今回は、この辞世の句から読み取れる天才・橋本左内の心情について考察していきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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橋本左内の最期について

 

橋本左内の最後についいては伝承による物しかなく、史料的に確かなものはないようです。ただ、その最期はかなりとり乱したものであったらしいのです。このことについて、フィクションである歴史小説、山本周五郎の「城中の(しも)」では泣き叫んで死んでいったことが、逆に武士としての無念を表しているものであると描いています。この小説は昭和15年に書かれた作品です。日本全体が戦時色に染まり、日本人全体が潔く生きるという空気の中発表された物の様です。また、橋本左内は、取り調べのときに自分の行動は藩命によるものだと主張したとのことです。

 

井伊直弼

 

 

これが、井伊直弼の反発を招き、「遠島」から「死罪」になったとも言われます。要するに、藩主に責任を負わせようとしており、武士らしからぬ態度であるということです。この橋本左内の言葉は正直ではあったものの、当時の価値観とは受け入れられなかったのでしょう。

 

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辞世の句とは

 

辞世の句とは人が死の間際に読んだ句のことをいいます。辞世の句を読むようになったのは中世以降で、戦国時代以降に有名な辞世の句がならんでいるのではないでしょうか。歴史上の有名人物では、豊臣秀吉(とよとみひでよし)浪速(なにわ)のことも夢のまた夢」などのフレーズは目にしたこともある人も多いかと思います。武士や身分の高い人にとっては、死の間際に辞世の句を読むことが中世以降習慣化していきます。ですので、歴史上の有名人物の多くが辞世の句を残しています。橋本左内もその習慣に従い辞世の句を残しています。

 

俺達尊攘派

 

 

橋本左内の辞世の句

橋本左内の辞世の句

 

橋本左内の辞世の句は「二十六年、夢の如く過ぐ。平昔を顧思すれば感ますます多し。天祥の大節、嘗て心折す。土室なほ(ぎん)ず、正気の歌。」と言うものです。

 

26歳と言う若さで、本来であれば死ぬような罪を犯していない中で、死を迎えなければならなかった無念の気持ちがこもった辞世の句であるように見えます。橋本左内の辞世の句を意訳すれば「26年の生涯が夢の様に過ぎて言った。昔のことを思い出すとその思いはますます大きくなっていく。かつての文天祥(ぶんてんしょう)の思いに感心したものであるが、自分も彼と同じく土牢の中にあって正気の歌を(うた)うのだ」というところです。

 

この中で出てくる文天祥とは、中国の南宋の政治家で元との和平交渉の中でとらえられ、元に帰順するように何度も言われながらも、それを拒否して刑死した忠臣とされている人物です。彼の謳った歌が正気の歌とよばれているものです。橋本左内はその忠臣に自分をなぞらえ、辞世の句を詠みました。君主である松平春嶽に忠実に、彼の政治方針、将軍として慶喜(よしのぶ)擁立に動いたことが、死罪に値することなのかと言う無念も感じます。

 

 

橋本左内の死を惜しんだ西郷隆盛の言葉とは

泣く西郷隆盛

 

安政の大獄では西郷隆盛(さいごうたかもり)自身がその災禍(さいか)を避けるため奄美大島(あまみおおしま)に「謹慎(きんしん)」と言う形で身をひそめていたのです。西郷隆盛が橋本左内の死を知ったのは奄美大島で隠遁中(いんとんちゅう)のことでした。橋本左内の死を知った西郷隆盛は「橋本(まで)死刑に逢い候儀案外(そうろうぎあんがい)悲憤千万(ひふんせんばん)()(がた)き時世に御座候(ござそうろう)」と大久保利通(おおくぼとしみち)などに送った手紙に書いています。

 

橋本左内の刑死を悲しく怒りを感じる物であり堪えられないと書いています。西郷隆盛は「将軍継嗣問題(しょうぐんこうしもんだい)」で橋本左内と共同歩調ととっており、その才能も高く評価していました。橋本左内の死は西郷隆盛に大きな衝撃を与えたことは間違いないでしょう。

 

 

三国志ライター夜食の独り言

 

橋本左内の辞世の句は己の正しさを死後まで信じていたのでしょう。将軍の擁立問題についてはそれぞれに言い分があり、後世の人間が評価するのは難しいですが、もし慶喜の将軍就任が早まった場合、幕府を政治勢力として残したままの明治維新(めいじいしん)というものがあったかもしれません。幕府の権威を取り戻そうと強権を振るった井伊直弼が逆に、幕府の命脈を縮めていったような感じもします。

 

橋本左内は26年間の短い人生で、具体的に何か実績を残したとは言い難いとは思いますが、西郷隆盛など、当時を生きた幕末の有名人に大きな思想的な影響を与えました。橋本左内の死後も彼の開国をするならば、むしろ日本が海外に進出すべきだという考えは、その後の日本の動きにかぶってきていきます。それが、批判的に取られる時代もありましたが、当時の世界の状況を考えれば、橋本佐内の考えは、グローバルスタンダードな考え方であったのかもしれません。

 

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ガンバレ徳川

 

 

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歴史大好き。特に江戸時代から幕末、太平洋戦争にかけては好きすぎるくらいです。戦史が好きですので、時代を超えて「戦いの歴史」が好きという者です。よろしくお願いします!! 好きな歴史人物:田沼意次 何か一言:歴史小説もWEBで公開しています。

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