井伊直弼といえば、開国を決断した英雄か安政の大獄での弾圧から独裁者とみるのか、評価が2つに分かれています。この記事では、最初に彦根藩主としての井伊直弼について取り上げます。次に、大老になってからの井伊直弼についても取り上げます。
この記事の目次
井伊直弼は彦根藩の名君だった
『井伊直弼が暗殺されたのは何故?暗殺へのステップを解説』では、彦根藩主だった井伊直弼について取り上げます。彦根藩主が兄の直亮から直弼に代わると、藩政改革に取り組みます。直弼は教育に熱心に取り組み、優秀な人材の確保や育成に力を入れました。藩内の視察を行い、貧困で苦しんでいる人に支援を行いました。藩が蓄えた15万両を領民に分配するなど領民から支持されました。
日米修好通商条約は本当にやむを得なかったの?
日米修好通商条約は無断で条約に調印したということで水戸派から非難されましたが、開国した当時、今の幕府とアメリカとの実力差があるため戦っても勝てないため、直弼はいったん開国して貿易をして富を蓄えてから攘夷を行うことを考えていました。アメリカとの戦争を回避できたという点では評価できるでしょう。
戦争を回避することはできましたが、庶民の生活は物価の高騰で苦しくなっていました。日米修好通商条約は不平等条約で、治外法権(領事裁判権)を認めていることや、関税自主権がありませんでした。関税自主権がないことで、外国人が茶や生糸など庶民の日用品を安く買い上げるため、日本国内は品不足になり、物価が高騰します。物価の高騰で庶民の生活は苦しくなり、庶民も攘夷に駆り立てられました。
関連記事:井伊直弼とはどんな人?倒れゆく幕府の犠牲になった真面目で誠実な独裁者
残虐に見える「安政の大獄」井伊直弼の言い分はあるの?
『井伊直弼の安政の大獄はいつから始まった?時系列で解説』では、安政の大獄が激化した要因として戊午の密勅を取り上げました。水戸派の大名は勅許なしで条約に調印したことに抗議するため無断で江戸城に登城しました。無断登城は違反行為で、登城した水戸派の大名は隠居・謹慎処分となりました。
謹慎・隠居処分を受けた水戸派は天皇を利用しました。その結果、水戸藩に戊午の密勅が出されました。戊午の密勅を受け取った水戸藩は、全国に天皇の声明を通達するように命じられました。その内容は、孝明天皇が朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結した幕府を非難するものでした。『井伊直弼の安政の大獄はいつから始まった?時系列で解説』では取り上げていませんが、井伊直弼を暗殺する内容が含まれていたという説があり、弾圧が激化したと言われています。
井伊直弼の行動は結果として幕府を守ったの?
『井伊直弼の安政の大獄はいつから始まった?時系列で解説』で取り上げたように、安政の大獄については大名だけでなく、藩士・浪人・学者・朝廷も弾圧の対象となりました。この中には吉田松陰や頼三樹三郎など著名な学者も含まれています。この一連の弾圧によって、水戸派だけでなく幕臣や諸藩の志士達も幕府を見限るようにもなりました。
井伊直弼は阿部正弘のせいで死ぬ羽目になった?
ペリーが来航したときの老中は阿部正弘でした。阿部正弘は日米和親条約を締結したときの幕政改革について取り上げます。『井伊直弼の安政の大獄はいつから始まった?時系列で解説』で取り上げたように、阿部正弘は幕府の政治に参加できなかった外様大名や朝廷にまで広く意見を求めて、政治改革を行おうとしました。その結果、前の水戸藩主徳川斉昭や島津斉彬・伊達宗城など、有力な外様大名が政治に参加できました。阿部正弘は外様大名などこれまでに参加資格がなかった人に政治に加えることで、開かれた政治を目指そうとしました。
阿部正弘は老中在任中に病死しました。その後、井伊直弼が大老に就任しました。260年間江戸幕府の政治は譜代大名が独占してきたので、直弼は外様大名を政治に参加させず、阿部正弘の開かれた政治を否定して、譜代大名のみで政治を行おうとしました。井伊直弼は反対する勢力を弾圧し、幕府の体勢を立て直そうとしましたが、結果として桜田門外の変で殺害されました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
井伊直弼は阿部正弘の開かれた政治を否定して江戸幕府の従来の政治に戻そうとしました。また、安政の大獄で激しい弾圧をしました。彦根藩主時代の庶民に慕われた時の政治から独裁者に至るまでの動機について気になっています。