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橋本左内の墓は二か所ある!?西郷隆盛も認めた幕末の名士をしのぶ

2018年4月21日


 

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橋本左内

 

幕末の英傑・橋本左内(はしもとさない)は神童・天才と呼ばれながらも、安政の大獄(あんせいのたいごく)で刑死しました。実際に政治の中で残した実績はさほど大きなものではありません。しかし、橋本左内を非常に高くしていた人物がいます。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の主人公西郷隆盛(さいごうたかもり)です。

 

橋本左内は、福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の命により、「将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)」に関わっていきます。その中で、橋本左内は西郷隆盛の同士とも言うべき存在となっていきます。今回は、橋本左内、西郷隆盛という幕末を代表する傑出した人物であるふたりの関係について、考察していきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西郷隆盛と橋本左内の関係

西郷隆盛

 

西郷隆盛が残した最初の橋本左内対する言葉、印象は「弱弱しく、女々しい男」というような意味のものでした。橋本左内は、元々医師の家に生まれ、武よりも学問の人です。それゆえ、一時は剣の腕で身を立てようという思いを持っていた西郷隆盛にとっては、軟弱、文弱の輩に見えたのかもしれません。

 

しかし、橋本左内の胸に秘めた学問への思い、武士たる存在となるべく思いは、触れるものが傷つく程に(とが)った、ギラギラとしたものでした。15歳のとき書いた「啓発録(けいはつろく)」では、学問や侍としてのあり方、自分の目指す理想について書き綴り、今の武士に対し強烈な批判を加えています。

 

 

二人が取り組んだ将軍継嗣問題とは?

江戸城

 

西郷隆盛と橋本左内が同じ目標を持って動いたのは「将軍継嗣問題」でした。二人は14代将軍として一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を擁立しようとします。後に江戸幕府最後の15代将軍となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)です。島津藩、福井藩とも、藩政に大きく関っていきます。

 

幕末時代の日本は、外国からの脅威を大きく感じており、この問題を解決するには、優秀なリーダーと思われていた一橋慶喜を将軍として、雄藩連合(ゆうはんれんごう)でそれを支えていくという体制を構想していたのです。

 

徳川慶喜

 

このような、活動の中で、西郷隆盛は、自分と同年齢の人物の中では、もっとも優れた人物であると橋本左内を評価するようになっていきます。しかし、島津藩の西郷隆盛、福井藩の橋本左内の「将軍継嗣問題」の活動は失敗してしまうのです。

 

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俺達尊攘派

 

 

運動は井伊直弼の登場で頓挫

井伊直弼

 

それは、井伊直弼(いいなおすけの登場が原因でした。彼は、将軍は、徳川の血を優先すべきであり、将軍のリーダーとしての優秀さなど関係なく、それは家臣団で支えていくのが、幕府政治の本筋であると考えていたのです。

 

徳川直参(とくがわじきさん)の名門、井伊家出身の井伊直弼は、家督を継ぐものが次々死ぬという幸運もあり、大老にまで上り詰めた男でした。使命感は強く、消して無能な政治家ではありませんでしたが、彼の最大の目標は徳川家を守ること。

 

井伊直弼

 

そして、幕政に口出して来る大名などの外部勢力の排除を行います。将軍も優秀性など関係ありません。結果として14代目の将軍は紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)となります。まだ年齢が10代の将軍です。そして、井伊直弼は、政敵であった「将軍継嗣問題」で一橋慶喜を擁立しようとした存在を一掃しようとするのです。それが安政の大獄でした。

 

 

橋本左内安政の大獄に散る

月照と西郷隆盛

 

その結果、西郷隆盛は僧・ 月照(げっしょう)と心中し、西郷隆盛だけ生き残り、彼は奄美大島(あまみおおしま)に流され謹慎となります。一説では薩摩藩が西郷隆盛を守るために、行った措置であるといわれます。しかし、橋本左内は、捕縛(ほばく)されてしまいます。橋本左内は、合理性を持って反論を行いますが、それが武士らしい態度ではないということで、死罪となってしまうのです。西郷隆盛はその死を奄美大島で知ります。

 

西郷隆盛

 

 

「橋本(まで)死刑に()候儀案外(そうろうぎあんがい)悲憤千万(ひふんせんばん)()(がた)き時世に御座候(ござそうろう)

 

西郷隆盛は橋本左内の刑死を死ってこのように書き残しています。悲しみと怒りで耐え難いと書いています。そして、西郷隆盛は西南戦争で自刃するまで、橋本左内からの手紙を持っていたといいます。それほどまでに、西郷隆盛は橋本左内を評価し、そしてその死を悲しんでいたのです。

 

 

東京荒川区の墓

橋本左内の墓

 

橋本左内には二つの墓があります。そのひとつが、東京都荒川区の墓です。橋本左内は安政の大獄で刑死下の後、多くの刑死されたものとまとめて葬られていたのです。ほとんど、無縁仏のような扱いです。1862年に、安政の大獄で処分を受けた人たちに恩赦(おんしゃ)が実施されました。以前から、橋本左内の墓を作ることを望んでいた、橋本左内の知人たちは、この機会に無縁仏や刑死した人を埋葬する回向院(えこういん)ら、遺骸、棺、墓石を故郷の福井へ移動させます。

 

橋本左内の遺骸は、橋本家の菩提寺である善慶寺へ移されたのです。しかし、1877年に新しい墓石が建てられます。そして、古い墓石が、東京荒川区の回向院に戻ってくることになったのです。橋本左内の供養を行う墓は回向院にもできました。このため、橋本左内の墓はふたつあり、そのうちのひとつの墓が、東京荒川区の回向院にあるのです。

 

 

福井市内の墓

 

橋本左内のふたつの墓のうちのひとつが福井市にある墓です。これは、東京都荒川区の回向院に、刑死したものたちととめて供養されていた橋本左内の遺骸、棺、墓石を福井市内に持ち帰り、新たに作った墓となります。橋本家の善慶寺に橋本左内の新しい墓が建てられ供養されることになります。この墓は今は「左内公園」の中にあります。

 

橋本左内の両親の両親の墓もこの公園にあります。福井市内のお墓では、毎年10月に墓前祭が橋本左内を供養を続ける有志の方の手により続いているとのことです。

 

 

橋本左内の著書「啓発録」について

橋本左内の啓発録

 

橋本左内は15歳のときに己自信のふがいなさゆえに「啓発録(けいはつろく)」という非常に過激ともいえる学問に対する目標、理想の武士となるための行動の指針を打ち立てます。「啓発録」は今でも福井県内では読本が作られ、小中学校の教育に取り込まれています。啓発録は大きくわけると5つの誓いのような形となっています。

 

稚心(ちしん)を去る

・ 気を振るう

・ 志を立つ

・ 学に勉む

・ 交友を(えら)

 

この5つつです。福井市内の公園の石碑にはこの言葉が刻まれています。まず、子どもの依存心を捨て、子どもがやる遊びなどはやらぬということ。人には負けないという気概をもち、努力すること。昔の偉人のように志を持って生きていくこと。優れた人物の行動を習い、実行すること。それだけなく親孝行して文武両道を行うこと。友人をしっかり選ぶこと。そして友人が間違った道にいきそうであれば、それを正しい道に直してやること。

 

現代的に意訳し要約するならば、このようなことがかかれたものです。中には現代の武士に対する手厳しい批判もあります。24歳のときに、橋本左内は「啓発録」を偶然見つけ、10年後の自分が15歳のときに思い描いていた人物に恥じない存在なれるかということを書き残しています。しかし、26歳の短い生涯を終えた橋本左内にはその10年後はやってきませんでした。

 

 

三国志ライター夜食の独り言

 

西郷隆盛も橋本左内も、藩の方針の中で「将軍継嗣問題」にかかわり奔走していました。立場もよく似ており、歳も近く、お互いに惹かれるものがあったのではないでしょうか。西郷隆盛は「先輩としては藤田東湖(ふじたとうこ)に服し、同輩としては橋本左内を推す。

 

この二人の才学器識は、吾輩の及ぶところでは無い」という言葉を書き残しています。ふたりとも強烈な「尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう)」を持った存在です。しかもその「攘夷」は、単に鎖国を続け、外国を追い払うというのではなく、逆に日本が世界に出て行くべきであるという、ある種「帝国主義的」な思想を含んだものでした。後に西郷隆盛が「征韓論(せいかんろん)」を唱えたのは、橋本左内の思想の影響もあったのかもしれません。今の価値観では、他国を武力で服従させるというのは、決して褒められた話ではないでしょう。

 

しかし、幕末という時代の世界はまさに力で他国を支配することはグローバルスタンダードな時代だったのです。その時代に生きた、西郷隆盛、橋本左内の結論がより強固なものになっていくのはその時代では正しいことだったのでしょう。そして、実際に近代日本はそのような道をたどっていくのです。

 

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ガンバレ徳川

 

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悟空

悟空

小学生時代、図書室にあった和歌森太郎さんの「学習漫画 日本の歴史」に触れたのが歴史好きになったきっかけ。中学・高校時代は新選組の土方歳三に憧れ、司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」の世界にはまりました。大学時代は一転して考古学に、森浩一先生の授業を楽しく受講していました。戦国時代に関しては歴史がダイナミックに変転したこともあって、常に興味の対象ではありました。サラリーマンとして上海に駐在していた時には2010年版の「三国」がテレビ放映されており、中国語の勉強がてら観ていました。 好きな歴史人物: 土方歳三(滅びの美学に惹かれました) 織田信長(独裁的ではありますが、人材登用や経済政策などリーダーとしてはすばらしいと思います) 何か一言: 歴史を学べば、皆様のこれから歩む道に少しばかりの灯りがともされます。

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