橋本左内とはどんな人?西郷どんが生涯尊敬した越前の天才

2018年3月6日


 

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NHK大河ドラマ西郷どんの主人公、西郷隆盛(さいごうたかもり)、彼には尊敬してやまない人物が、

二人いました、一人は水戸の藤田東湖(ふじたとうこ)、そしてもう一人は越前の橋本左内(はしもとさない)です。

特に橋本左内の手紙は西南戦争の時までも肌身離さず持っていた程でした。

西郷どんでは、ジャニーズの風間俊介さんが演じる橋本左内ですが、

若くして天才と謳われながら安政の大獄に倒れてしまいます。

そんな左内は実はモノマネ好きで、マッドドクターの一面を持つ変わった人でもありました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1834年越前藩に外科医の子供として生まれる

 

橋本左内は、1834年越前藩の奥医師(外科医)橋本長綱(はしもとながつな)の長男として生まれます。

肖像画にあるように、彼は色白で身長も151センチと小さく、まるで女性のような

容姿でしたが、その目には常人ではない輝きがあり、受け答えも堂々としていて

侵しがたい威厳を持ち、特に言葉遣いは15歳で40歳を越えた大人のように

落ち着いた丁寧さがあったそうです。

 

橋本左内は本の虫でもあり、14~15歳の頃から一日たりとも読書を止めず

食事の時でさえ、傍らに本をを置いて読書する程でした。

読んでいたのは観念論より実学を好み、兵学、天文、地理、数学を読んでいます。

なんだか、いかにも神童エピソードですが、ご飯食べながら本を読むのは、

当時としても行儀が悪いんじゃないですかね?

読んでるのが漫画じゃなければ正当化されるのか?という気もします。

 



15歳で人生の目標を「啓発録」にしたためる

 

橋本左内は読むばかりではなく、書くことにもマメな人物でした。

26歳で処刑されるまでに多くの文書を書いていますが、一番有名なのは、

15歳の時に書いた啓発録(けいはつろく)でしょう。

 

こちらは、人間としてどう生きるべきかという事を記述したもので、

その優れた内容からビジネス書になると同時に昔から福井県では、

教科書の副読本として使われているそうです。

その内容は以下のようなものです。

 

稚心(ちしん)を去る・・親に甘えた子供じみた心を捨て文武に励んで才能を磨き

独立して生きていく為に努力する事

 

・気を奮う(ふる)・・努力しないで人に負けるのを恥ずかしいと思う事だ。

負けたら本気で悔しがり、次は勝とうと懸命に努力して自分を磨く

決して人には負けまいと努力する事

 

(こころざし)を立てる・・志とは、どのように生きるかの方向性を定める事だ。

方向性を定めるには、古来より素晴らしいと言われる書物を無心に読んで、

その中で心に残った言葉を抜き出して壁に貼り、いつもそれを眺めて

自分の足らぬ事を反省して精進する。

そして、自分が少しずつ前進する事を楽しみとする事だ。

 

・学に勉む(つと)・・勉学とは優れた人物の立派な行いに習い、

自らもそれを実行し力を出し尽くして目的を達成するまで継続する事だ。

それには、書物を読んで知識を吸収するのみではなく、

忠孝の精神を養う事と文武の道を修業する事が大事である。

 

・友を(えら)ぶ・・交友とは自分が交際する友人の事である。

友人には益友と損友があるから、その違いを慎重に見極めるべきだ。

そして、益友とは積極的に付き合い大事にし、損友がいたら、

その善くない部分を矯正し、善い道に導いてやる事だ。

 

これを15歳の少年が書いたというのが凄いですね。

40を3つも過ぎたkawausoは、これだけ立派な事はとても書けません。

さらに凄いのは、左内はここに挙げた事を実践した点です。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末

 

16歳で大坂に行き適塾で緒方洪庵から蘭学と医学を学ぶ

(画:緒方洪庵 Wikipedia)

 

1849年冬、16歳の左内は家業である医師になるべく大坂の適塾(てきじゅく)の門を叩きます。

こちらは牛痘接種(ぎゅうとうしゅとう)を日本で初めて継続的かつ大規模に行い、天然痘の撲滅に貢献した

医師緒方洪庵(おがたこうあん)の医学塾で当時から非常な評判でした。

 

左内は、ここで蘭学と医学を学びつつ横井小楠(よこいしょうなん)梅田雲浜(うめだうんびん)と交流します。

両者とも幕末の思想家として名高い人であり、左内はここで日本が西洋の勢力に

脅かされている実情を聞かされる事になります。

 

1852年、父、橋本長綱が病気に倒れたので、越前に帰り医業を継ぎますが、

適塾での経験から国事に関心を持つようになった左内は、医師を辞めて

志士として活躍したいと考えるようになります。

 

悶々としつつ医者として活躍していた頃、1853年、浦賀にペリー艦隊が来航、

この大事件を前にして、いよいよ日本が危ないと考えた左内は、

居ても立ってもいられず、たまらず翌年には江戸に出てきます。

 

そこで、ペリー艦隊を目撃した事が左内の認識を大きく変えました。

単純な攘夷論では、あの巨大な戦艦に対抗できないと悟った左内は、

開国論に舵を切り、西洋の文物を吸収する事に徹します。

 

江戸では、独学で英語やドイツ語にも学んだそうです。

それがどの程度のレベルで通用したのか?辞書も満足にない時代なので

分かりませんが、左内が並々ならない先見性と努力をしていた事は

見て取る事が出来ますね。

 

実はマッドドクター?危険な左内の診療

 

医者の家に生まれた事を嫌がり、国事に奔走したいと願った左内ですが

一方で西洋医学も熱心に勉強していて、郷里では乳癌(にゅうがん)の摘出手術も行っています。

また、適塾で学んでいる頃、左内は夜になると姿を(くら)ましていました。

 

それを何度か繰り返す間に、適塾の塾頭の福沢諭吉(ふくざわゆきち)が異変に気が付き、

「ははーん、橋本も男という事か、女でも出来たんだろう」等と

ゲスな勘繰りを起こし、ある時黙って左内を尾行して様子を見ていると

色街に繰り出すかと思いきや、左内は貧民が集まってる橋の下に下りていき、

医者にも(かか)れない貧しい人々の診療をしていたそうです。

 

福沢は自分のゲスな考えを恥じて、左内を益々尊敬したそうですが

もしかすると自分の医術の腕を試そうと今でいう研修医のような事を

やっていたのかも知れません。

 

佐内という人は、学問は実際の役に立たないと無意味だと考えていたそうで

机上の学問にならないように医学も実用に役立つか調べたようです。

 

また少年の頃の話、佐内をいじめていた少年が小刀で指を切ってしまいます。

それを見た、いじめっ子達は、左内に「お前は医者の息子だろ!傷を治してみせろ」と

騒いだので、左内は焼け火箸を持ってきて少年の傷口を焼こうとしました。

 

「なにをする!怪我をしているのを、さらに火傷まで負わせる気か!」

塾生が怒ると左内は平気な顔で、

「私は切り傷の治療法は知らないが火傷の治療法は習っている」

平然として答えたそうです。

頭の回転の速い佐内らしい、イジメっ子への仕返しとも言えますが、

案外、本気でそんな合理的な事を考えていたのかも知れません。

 

こうして考えると左内は、病気の治療に重点が行き過ぎている

マッドドクターだったように思えますね。

もし、医者のままだったなら、治療熱が暴走して

日本版フランケンシュタインの怪物でも生み出していたりして・・・

 

越前藩主の松平春嶽に見いだされ士分に取り立てられる

 

いかに国を思って勉学に励んでも藩の医師の身分では何も出来ません。

そこで、左内は幼馴染みの佐々木長淳(ささきながのぶ)に頼みました。

 

「医師の身分では政治の話をする事は出来ない、私は政治に携わりたいのだ

命が縮んでも構わないから執政の中根様に取り次いでくれ」

 

佐々木は、承諾して藩の重役の中根雪江(なかねゆきえ)に話をしますが、

「うー」と思案顔しただけで話を変えてしまったそうです。

ですが、1855年、藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)により左内の優秀さは認められ、

赤字に喘いでいた越前藩の政治改革の為に士分に取り立てられました。

1857年には、藩校、明道館の学監心得(がくかんこころえ)に抜擢されます。

 

学監心得というのは、現在の教頭先生位の地位のようですが、

この時、左内は23歳という若さでした。

いかに橋本左内の学問が抜きんでていたか分かる話ですね。

 

1855年、江戸で西郷どんと初めて会うが・・

 

松平春嶽は、越前藩の藩主としてイケメン老中の阿部正弘(あべまさひろ)に抜擢されました。

元々、春嶽は水戸の徳川斉昭(とくがわなりあき)と同様に開明派で攘夷派でしたが、

阿部の感化を受けて考えを変えて、開国派になっています。

 

しかし、仮にも殿様の身分では、ホイホイ出歩く事など出来ないので、

連絡係や物事の根回しについては、若く聡明な左内に一任していました。

さて、この春嶽は薩摩の開明派大名の島津斉彬(しまづなりあきら)とも親しかったので、

当然、斉彬の秘蔵っ子である西郷吉之助(さいごうきちのすけ)の事も教えられていました。

 

そこで、ある時、左内に西郷とコンタクトを取るように命じます。

左内は言われた通りに、西郷どんがいた薩摩藩邸を訪ねますが

その頃、西郷どんのマイブームは相撲であり、仲間と延々と相撲を取って

左内が訪ねてきた事にも気が付きませんでした。

 

やっと、門の側でポツンと立っている左内の姿を見つけて

「あやや、こいは御無礼致しもした」と屋敷に招きいれたものの、

 

「私は国の話をしに尋ねたのに、遊戯に興じて気が付かないとは、

ちょっと危機感が足りないのではないですか?」と皮肉を言われます。

 

その後、色々の話をしたようですが、西郷どんは左内が国内事情のみならず、

海外事情にも詳しいのに驚き、非常に尊敬しました。

ところが、左内の方は西郷どんが血気盛んなだけの尊王青年にしか見えず

非常にガッカリしたのだそうです。

 

将軍後継者問題では、西郷どんと連携を取りながら協力

 

最初はがっかりした左内ですが、何度か会う間に西郷どんの

誠実で勇気ある態度に感心し、一緒に活動する事になります。

 

日米修好通商条約の問題と同時に持ち上がった14代将軍を誰にするか?という

将軍後継者問題では、島津斉彬、松平春嶽が推す水戸の徳川斉昭の子である

一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の擁立を唱え、また天皇の許しを得ない条約締結には反対の立場で各地を

遊説して回りますが、反動政治家、大老井伊直弼(いいなおすけ)の登場で二人の前途には

暗雲が立ち込める事になりました。

 

大老に就任した井伊の逆襲により、14代将軍は紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)に決定。

また、天皇の許可も得ずに日米修好通商条約も独断で調印されてしまいます。

さらに、それに抗議した松平春嶽は将軍の命令として謹慎を申しつけられ

おまけに一時、薩摩に帰り兵を率いて上洛しようとしていた島津斉彬は

軍事演習を閲兵している最中に急死してしまったのです。

 

後ろ盾を失った橋本左内と西郷隆盛は、ただの一藩士となり、

井伊の赤鬼の憎悪に曝される事になったのです。

 

井伊に睨まれた橋本左内は安政の大獄に倒れる

 

教科書的には、安政の大獄は開国した井伊直弼に反対する尊攘派の志士が、

治安維持の名目で逮捕され殺されたと書かれていますが、それは大雑把すぎます。

実際、橋本左内は黒船を間近に見た経験からとっくに攘夷を捨てていました。

 

当時はまだまだ、攘夷を唱える尊王派が多く、左内が開国論を唱えると、

「お前は異人に魂を売った売国奴だ」と罵られ辛い思いをしていたのです。

実は、安政の大獄は攘夷派を弾圧したのではなく将軍後継者問題で

一橋慶喜を担いだ人々を弾圧するのが目的でした。

 

実際には、一橋慶喜を擁立した人にも開国派から攘夷派までいますが

そんな事は関係なく、井伊直弼は政敵である水戸斉昭の味方と見た人間を

片っ端から逮捕させたのです。

だから、ゴリゴリの攘夷を唱えた吉田松陰(よしだしょういん)や梅田雲浜や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)

開国派の橋本左内が、一緒くたに逮捕されてしまったわけなのです。

 

逃げられないと見た橋本左内は、私は間違った事はしていないとばかりに

正装で北町奉行所に出頭します。

ただちに逮捕され、六度にわたる取り調べを受けますが、橋本左内は

「私は幕府の為に活動しただけである」と答えるだけでした。

 

実際に橋本左内は、主君の松平春嶽同様、倒幕など考えていませんでした。

彼の考える政治体制は、徳川幕府を中心に諸藩の大名や藩士が政治に参加する

雄藩連合という政治体制であり、幕府を倒して天皇を中心とした中央集権国家を

作ろうという後の尊王攘夷思想より、ずーっと穏健なものです。

 

しかし、それでさえ、当時、譜代大名が政治を独占していた時代には、

危険思想であり、外様大名や親藩大名が政治に関与するのは、

幕藩体制を崩壊させると危険視されていました。

 

伝馬町の牢に入った左内は当初、遠島、つまり島流しでしたが、

その後、刑罰が変わり斬首にされてしまいます。

こうして、1859年10月7日、入獄してから僅か5日の異例の速さで

橋本左内は頼三樹三郎と共に、首を斬られてしまいます。

享年26歳、早熟の天才の余りにも早い最期でした。

 

橋本左内の墓は、福井の善慶寺に隣接する左内公園と南千住の回向院にあります。

回向院(えこういん)には吉田松陰の墓もあります、両者は面識はありませんが、

お互いに牢獄内で歌を交わすなど交友があったとの事です。

 

真面目で激しい性格の反面でモノマネ好きだった橋本左内

 

橋本左内は、温和で丁寧な言葉遣いに似合わず激しいエネルギーに満ち溢れていました。

普段は大人しく寡黙ですが、政治の事になると熱くなり、いつも短刀直入に

相手の痛いところを突き、決着がつくまで夜を徹して議論を止めなかったので

言い負かされた人の一部には恨まれていたようです。

 

また普段は寡黙と言っても、左内は自分にも他人にも厳しい雰囲気があるので、

越前藩で小姓頭をしていた頃には同僚に恐れられ、左内の下駄の音が響くと

「左内が来るぞ、静かにせェ」とそれまで騒いでいたのが静まり、

職場には粛然としたピリピリした空気が流れていました。

 

ですが、左内にはそれとは正反対の特技もありました。

それがモノマネで、子供の頃には猫のモノマネが得意でニャーニャー

言っていたようですし、青年になってからは、上役である中根雪江や、

西郷どんの口真似をして、周囲を笑わせていたと、

左内の塾僕をしていた加藤斌は証言しています。

 

加藤の証言では中根雪江は、人と話すときにウーウーと返事をし、

西郷はエーエーと返事をする、左内はその二人の返事の口真似をして

とても似ていて、なんとも可笑しみがあったそうです。

 

橋本左内の子孫にはどんな人がいる?

 

橋本左内には橋本綱常(はしもとつなつね)という弟がいました。

家を継ぐ筈の左内が松平春嶽に抜擢されて士分になったので、

橋本家は、綱常が相続し明治維新後は軍医に転身して、明治3年にはドイツ留学

最終的には軍医総監まで出世し、初代日本赤十字病院の院長になっています。

 

左内が果たせなかった医師としての貢献は弟の綱常が果たしたのですね。

この綱常には(かおる)という娘がいて、日本の中国文学者で随筆家の奥野慎太郎に

嫁いでいますから、左内は奥野慎太郎の大伯父にあたります。

 

啓発録はアンジェラ・アキ方式で世に出た

 

橋本左内の有名な著書である啓発録(けいはつろく)ですが、彼は15歳でこれを書いてから

10年間、多忙の中でその存在を忘れていました。

しかし、たまたま書箱を整理している中で啓発録を見つけ出し、

10年前の自分の志を見直して、これは学生達の励みになるかも知れないと

副書(ふくしょ)して周囲の人々に配ったのが啓発録が世に出た始まりなのです。

 

まるでアンジェラ・アキの「手紙~拝啓十五の君へ~」方式ですが

その副書の最期に左内はこう記しました。

10年後の私も、15の私の志に恥じない人間であれれば幸福である。

ですが、それから僅か2年後、左内は安政の大獄に倒れてしまうのです。

どこまでも純粋に15歳の志を貫徹しようとした左内は

非常に真っすぐな人物であったと言えるでしょう。

 

処刑される時に見苦しかった?26歳の左内の叫び

 

橋本左内の最期については、あまり語られていません。

実は、地元では左内の最期は潔くないとして、

語るのを躊躇(ちゅうちょ)する雰囲気があるのです。

 

山本周五郎の小説では、橋本左内は刑場に引きだされたものの

目からは、とめどなく涙があふれていたそうです。

そして、介錯人が首を落とそうとすると

「待ってくれ!」と一度制止したと言われています。

 

佐内は、ボロボロ泣きながら故郷越前の方向を向き

静かに手を合わせて祈りを捧げてから大粒の涙をぬぐい、

「さあ、やってくれ」と決心しました。

佐内の処刑を見届けた人は、左内の名誉の為に

この事を黙っていましたが、目撃した誰かが

話をしてしまい、それが越前まで伝わりました。

越前の侍達は、泣いていたという左内を嘲り

「越前武士の顔汚し」だと酒場で罵りました。

 

それを聞いた、酒場の女中が怒り

「盗人なら、斬首でも笑いながら死んでいくさ

橋本様が涙を流したのは、自分の為じゃない

国の為に尽くせなかったその無念で泣いたのだ。

何も分からない癖に悪くいうでないよ」

と左内を弁護したそうです。

 

佐内は立派ではなかったのでしょうか?

泣いたから?一度は介錯人を止めたから?

そんな事はないと思います。

たった26歳で理不尽な理由で世を去る

その悲しさは、とても現代人には理解できません。

ましてや、15の時に堅い志を立てて、

ひたすらに国事に邁進した左内なのです。

どんなにつらく、悲しく、無念な最期だったか

そんな彼の死の上に、現在の日本はある、、

私には左内の最期に手を合わせたい

そんな気持ちだけしかありません。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

西郷どんが橋本左内の死を知ったのは奄美大島に流罪になっていた時でした。

その時の感想として、西郷どんは、

「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」

と激しい悲しみと怒りを露わにしています。

 

文面に案外という言葉がありますから、開国派で幕府を倒すつもりなどない

左内が殺されてしまうとは、悲しいやら悔しいやら耐えられない世の中だ

というような意味だと解釈できます。

 

これは西郷どんばかりではなく、当時の尊王攘夷派が共通して持った感想でした。

幕府を助けるつもりで運動して逮捕され仲間が幕府に殺された彼らは、

もう幕府はダメだと見限り倒幕運動へ進んでいくのです。

 

幕府を中心とした雄藩連合の政治体制を考えていた橋本左内の死が、

倒幕運動に結びつくなんて運命の皮肉ですね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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