幕末の徳川家将軍家を支えるために必死に働いた井伊直弼。
しかし井伊直弼は安政の大獄を行った事で、悪役としてのイメージが付いてしまいます。
彼の肖像画を見てみると確かに悪役っぽい貫禄ある顔をしているなと感じますが、
本当に悪役だったでしょうか。
何か彼の中で大きな決断や志など秘めた想いがあり、
その秘めたる想いを考えすぎて悪役顔になってしまったのではないのでしょうか。
今回は井伊直弼の肖像画から色々と探ってみたいと思います。
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この記事の目次
桜田門外の変の年、井伊直弼が描かせた最後の肖像画がある
井伊直弼は安政の大獄を行ったことで多くの人から恨みを買う事になります。
井伊直弼は多くの恨みを買っている事を知っていながら、自分の身の回りの警護を増やしませんでした。
そんな直弼の無用心を心配した水戸藩の重臣は
「君は恨みを買っているから警護を増やすなり、
彦根に帰って時勢が落ち着くまで帰郷した方がいいんじゃないか」
とアドバイス。
しかし井伊直弼はアドバイスを受け入れることなく、いつも通り生活を続けていました。
そんな中ついに事件が起きてしまいます。
それはいつも通り井伊直弼が江戸城の桜田門から帰ろうとした時、
水戸藩士らの襲撃を受けてしまいます。
(画像:井伊直弼肖像画Wikipedia)
直弼はこの襲撃のせいで亡くなってしまいますが、この年に自分の肖像画を書いています。
井伊直弼の肖像画はちょっと厳しい顔つきをして、一点を見つめています。
肖像画を描かせるのにどうしてあんなに厳しい顔つきをしているのでしょうか。
この肖像画で井伊直弼が厳しい顔つきをしている理由を伺えるモノがあります。
それはこの肖像画に書かれている歌です。
井伊直弼の肖像画の上にある和歌の意味は?
井伊直弼の肖像画には和歌が描かれていますが、一体どのような意味なのでしょうか。
この和歌は
「あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世に心を くだきぬるかな」
と書かれています。一体どのような意味なのでしょうか。
それは「琵琶湖で磯に何度も打ち据えられている波のように私も社会に大きな貢献をしてきたと思う。
この後何が起きてもそれに向かっていく」との決意が込められた歌だそうです。
【参考サイトwww.hikone-150th.jp/naosuke/learn/whats/】
このような思いを思慮している中、肖像画を書かせていれば、
ちょっと厳しい表情になってもしょうがないと思います。
井伊直弼は「悪人顔」なのではなく、責任の重さで厳しい顔になった
井伊直弼は彼の中で思慮している中、肖像画を描かせている為、
ちょっと厳しい顔つきの肖像画が仕上がってしまいます。
でも井伊直弼は元々どのような顔つきだったのでしょうか。
井伊直弼は悪人と呼ばれるほど悪い人物ではなく、元々は真面目な性格だったと思われます。
彼が真面目な性格だと思われるのは幼い頃からの勉学から見る事ができます。
直弼は幼い頃から熱心に読み書きや儒教、剣道等を学んでいましたが、
途中でつまんないし、厳しいからやめないで、自分が納得するまで熱心に学んでいたそうです。
また井伊直弼は江戸で幕府を支える大老に就任すると、
幕府の政治と彦根の政治の両方を見なくてはならなくなり、考えることが多く、
仕事に追われる辛い日々を送っていたのではないのでしょう。
大老になった井伊直弼は
幕府政治の最重要課題・アメリカとの外交問題を解決しなければなりませんでした。
幕府はアメリカと開国する考えが主流でした。
しかし外様大名は開国するなとの反対意見が多くを占めていました。
井伊直弼は開国派でしたが、反対意見の人々を納得するため、
毎日江戸城で会議をして反対派を説得していたそうです。
直弼は途中で議論を放棄することなく反対派へしっかりと自らの意見を述べて、反対派に対抗。
幕臣達は井伊直弼の物怖じせず意見を言う姿を見た人々は驚いたとの記録が残っています。
このように真面目な性格だった井伊直弼は毎日毎日反対派を納得させるための会議を開いていれば、
表情が厳しく変わってくるのはしょうがないと思われます。
井伊直弼の兜のアレがかなり凄い・・
井伊直弼の井伊家は武門の家で有名です。
彦根藩の創設者・井伊直政は徳川四天王に数えれられ、常に戦では先鋒を命じられ、
井伊の赤備えと言われる強力な軍隊を率いていました。
それは直弼の時代になっても変わりませんでした。
直弼の甲冑は真っ赤な甲冑で井伊の赤備えと呼ばれるに相応しい物です。
しかし彼の甲冑はかなり特徴的で、兜のあれがとんでもないことになっています。
一体何がとんでもないことになっているのか。
それは兜の衝立がすごく長いんです。
どうしてこんなに長くしたのかは不明ですが、
かなり重くて邪魔なんじゃないかなと思うのは私だけでしょうか。
また井伊直弼の甲冑は胴回りが大きめでがっしりした体格だったそうです。
彦根藩の人々は直弼の死を深く悲しんだ
井伊直弼は彦根藩の武士や市民達から慕われていました。
直弼が彦根に帰ってくると彦根藩の領民達は彼を沿道に出迎えていたそうです。
また桜田門外の変で直弼が襲撃して亡くなった後、
家来たちは直弼の血が染み込まれた土を彦根に持って帰り、お墓に埋めて供養したそうです。
さらに井伊直弼の家来・遠城謙道は、直弼の恩にむくいるため、
武士の身分を捨てて僧になり、井伊直弼の墓を守る決断をします。
豪徳寺の中に住み、亡くなるまで37年間、毎日直弼の墓を掃除して暮らしたそうです。
悪役として有名な井伊直弼は幕府内部では嫌われていましたが、
領民や藩士からはかなり慕われていたのです。
幕末ライター黒田レンの独り言
井伊直弼は悪役としてのイメージがかなり強い幕府の政治家ですが、
彦根藩の領民や武士からは慕われていました。
長州藩の思想家・吉田松陰は彼を「名君」として尊敬していたそうです。
この松陰の直弼評価はちゃんと的を得ていると私は考えます。
井伊直弼は大弾圧の政策のせいで悪役としての側面を持っているかもしれません。
しかし彼のもう一面は藩主として名君で名政治家としての素質も十分に持っており、
時代が混乱していなければ、違った印象を後世に刻んだかもしれません。
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