吉田松陰はテロリストなの?それってホント?

2018年5月11日


 

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吉田松陰

 

明治維新(めいじいしん)を武力テロであり、その思想的な扇動者が

吉田松陰(よしだしょういん)であると説く本が話題になったことがあります。

「定説叩きビジネス」や「仮想敵ビジネス」という

出版やネットビジネスでは、良くある手法のひとつです。

 

吉田松陰は別にテロを容認したわけでもなく、

時代という枠の中で自分の目で見て、自分の頭でこれからの日本のことを考えたのです。

後世の後知恵、結果の分かっている未来の人間が、

つじつま合わせて「説明」しようとすることは史学ではなくエンタメのジャンルです。

 

明治維新が完璧なものでなく、江戸幕府の中に優秀な人材がいたという主張は、

一般の人には目新しい話かもしれません。

しかし、それをもって、明治維新が悪であり、

江戸幕府の方が現実路線で良かったと主張するのは早計にすぎるでしょう。

今回は、最近目にすることの多くなった吉田松陰テロリスト論について、

検証をしていきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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吉田松陰テロリスト説とは?

 

吉田松陰が幕末のテロを容認し先導した人間であるという主張は、

原田伊織(はらだいおり)氏の『明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』が発端でしょう。

今でも、西郷隆盛(さいごうたかもり)批判など、盛んに幕末、明治維新の人物の「再評価」を行っている方です。

吉田松陰は「狂いたまえ」といいうような、今解釈すると過激な言説のような言葉を残しています。

 

歴史的な事件や、人物は今の視点や価値観で見れば、どのようにも批判できます。

当時「攘夷(じょうい)」は外国勢力によって危機にさらされていると感じている日本人にとっては、

安全保障のためのひとつの方法であったのです。

 

吉田松陰は、敵を知らねば勝てぬとばかりに、アメリカに密航を企てるくらいですから、

彼我の力の差を知っていました。

さらに、幼少より山鹿流軍学(やまがりゅうぐんがく)を叩き込まれた軍学者です。

 

現代で使うような意味の「テロリズム」によって幕府を打倒して、

政権をとるべきだなどとは主張していません。

問題はいかにして、日本が直面している脅威から日本を守るかと言う点です。

 

対外政策、安全保障の面で、幕府が対外勢力対し

意外なほど粘り強い交渉をしていたのは事実ですが、

その内実、情報はどんな有能な人間であっても、

知りえる方法が無ければ知ることはできません。

 

現代のように、溢れるように情報が手に入る時代ではなかったのです。

その中で、日本のための安全保障にはどうすればいいのか?

それを考え、日々弟子たちと議論を重ねていた彼を、

今の時代の「テロ」と重ね合わせるのは相当に無理があるでしょう。

 

そもそも「テロ」と言う言葉を幕末に使えるのででしょうか、

非対象戦が問題となった現代の問題の中、

新たな意味を持った「テロ」という言葉の語感だけをイメージさせるように

誘導し、幕末にもっていって使用するのは無理があります。

 

それまで賞賛されていた明治維新を否定する、批判することはできます。

私たちは未来にいるというアドバンテージをもっているからです。

 

江戸幕府の幕臣の中に優秀で、対外的な物の見えていた人物がいたことは分かっています。

すでに、史学の上では分かっていたことをことさら強調し、それを事由にして、

自己流の明治維新批判を構築することはできるででしょう。

 

しかし、歴史上の人物の内面を「エゴ」と「権力欲」と断定し、

それが原動力となったのが明治維新であったとするのは

早計に過ぎる面があるのではないしょうか。

その意味ででも、吉田松陰テロリスト論は、耳目を引くもの出がありますが、

なんの証拠もない話となっています。

 



江戸時代は本当にユートピアだったのか?

 

江戸時代ブームが少し前にあり、今では多くの歴史学者が否定する

「江戸しぐさ」なども話題になったことがありました。

まず、江戸時代があまりに暗い時代、封建時代であったという反発から、

江戸時代を再評価する動きがあり、それが行き過ぎて、

「江戸時代ユートピア論」のようなものまで生まれました。

 

そこで言われる教育水準の高さも国家として統一された教育ではなく、

手習いのレベルです。

そして、識字率の高さも日本語の特性を無視できません。

ひらがなさえ読めれば、話し言葉の読み書きができるのが日本語です。

ですので、当時の大衆娯楽であった、春画などに書かれている文字などは、

ほぼひらがなです。

 

そして、環境問題が進んでいたといいますが、江戸の運河に住民がゴミを捨てまくり、

汚染されていた様子を平賀源内が戯作家として書いた作品の中に記しています。

現代に比べれば不衛生であり、医療知識も低く、子供の死亡利率の高い社会でした。

そして、江戸時代中には、なんども飢饉が発生しますが、幕藩体制化の流通の不備により、

国家としてなかなかそれに取り組むことが困難だった面もあります。

徳川家康

 

確かに、同時代の他国の都市に比べ先進的な部分を持っていたのは確かです。

一時期に言われたような、酷い部分(身分制度の固定度、大名行列に対する接し方など)では

否定されているものもありますが、だからといって社会がユートピアなわけがないのです。

 

決して江戸時代はユートピアではなく、その時代の政治体制は

「徳川家」の存続を第一に構築された社会であったということ

その時代の枠の中にあった限界のある社会であったということです。

 

君主論

 

鎖国政策を批判しただけで蘭学者が凄惨な拷問を受けた「蛮社の獄」

(画像:渡辺華山Wikipedia)

 

幕府の政策に外部のものが口を出すことは非常に危険でした。

渡辺崋山(わたなべかざん)高野長英(たかのちょうえい)などの蘭学者は幕府の外国船に対する対応を批判しただけで、

処罰を受けています。

江戸幕府は、徳川家の存続が最大の目的で存在しています。

そして、それを守っていくのは、徳川家に古くからついてきた家臣団であり、

それ以外のものが国策に関わる方針に口を出すなど、ありえないことです。

江戸城

 

明治初期に起きた自由民権運動のような動きが江戸時代にできたかといえば、

絶対にそれは不可能でした。

幕末期は、老中・阿部正弘(あべまさひろ)のとった広く意見を求めていくと言う方針の中、

国家論を語る人たちが増えました。しかし、そのゆり戻しとして、安政の大獄(あんせいのたいごく)も起きました。

 

テロリスト?吉田松陰は生涯人を斬っていない

処刑される吉田松陰

 

吉田松陰は軍学者です。

敵と戦い打ち勝つことを幼少期より叩き込まれた人物であることが

まず前提であることを忘れてはいけないのではないでしょうか。

 

その彼が、老中暗殺を言い出したのは、

このままでは国家の安全保障に問題があると判断したからです。

議会も普通選挙もない時代、言論によってそれを修正することはできません。

 

過去のことを知っている未来の私たちは、

歴史を俯瞰(ふかん)して後知恵で、いくらでも批判はできます。

しかし、吉田松陰には吉田松陰の考えがあり、

そして、計画するだけの理由があり、彼はそれを正しいと信じていました。

ただ、さすがに危なすぎると言うことで賛同者も少なく、

老中暗殺計画も未遂に終わります。

 

軍学者である彼は、全く人を殺したことがないのです。

それをもって、彼が平和主義者だというわけではないですが、

彼の考え方を、現代の無差別テロと同列に語ってしまうのは、

非常に無理があるといるのではないでしょうか。

   

松下村塾々塾生は吉田松陰にテロリスト洗脳された?

 

吉田松陰の松下村塾はまず、洗脳教育ができるような教育体制をとっていません。

師と弟子が対等な立場で議論しあうというのが、基本的な講義でした。

このような教育の仕方で洗脳しテロリストを生み出せるのでしょうか。

テロリストの学校を知りませんので断言できませんが、

洗脳とは通常思考の自由を奪うための何かの仕掛けをつくります。

 

自由に対等な議論をする中で、

ある種の「強烈な攘夷思想」の空気が作られていったことが考えられますが、

それは、学んだ弟子たちが自分で考え選んだともいえるわけです。

当時は「攘夷」は安全保障のひとつの方法として十分に議論の対象になりえたものです。

 

そもそも、現代的な意味で使われるテロリストと言う言葉を安易に使い、

未来の見える我々が当時の人間をそのように決め付けること事態が思い上がりです。

洗脳もテロリストも、扇情的な言葉を使うことで、インパクトを狙ったものであり、

吉田松陰の本質をついたものではないでしょう。

 

【禁門の変】京都が焼けたのは長州藩だけのせい?

 

公武合体派により、過激な攘夷思想を持つとされた長州藩は、京都を追放されていました。

それに対し、長州藩内部では不満がくすぶり続けていました。

そして起きたのが「禁門の変(きんもんのへん)」です。

 

長州藩が、京都に戻り自分たちを追放した

公武合体派の中心であると目された会津藩主で

京都守護職、松平容保(まつだいらかたもり)らの排除を狙い挙兵しました。

この結果、京都は内乱状態となるのですが、確かに仕掛けたのは長州藩ですが、

戦闘においては会津藩の軍勢も民家に火を放っています。

潜んでいる長州藩の人間をあぶりだすためです。

 

戦争では、どちらにも「正義」「名目」があり、

一概にどちらかを悪とは決め付けられません。

ただ、京都の町を焼いたと言う点では

会津藩も長州藩と同じように行動をしているのです。

 

対照的に賛美される会津藩は本当に立派?

 

会津藩は、三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の異母弟である

保科 正之(ほしなまさゆき)が藩主となり、大きく発展した藩です。

保科 正之が江戸時代屈指の名君であると評価され、

最後まで滅びゆく幕府に(じゅん)じていった判官びいきもあるのか、

会津藩は立派な藩であったとする言説が多いです。

 

確かに、藩士の教育など進んだ部分はあったのですが、

会津藩の問題は、多くの幕政に関わる大名が抱える問題である、

領内の住民に非常に厳しいという部分があったのです。

 

幕政に関わることが多いこと、家格を整えるための費用など、

会津藩は、非常にランニングコストの高い藩であったあったのです。

その結果、住民には重税が課せられ、藩と住民はどんどん乖離(かいり)していきます。

 

戊辰戦争のときも「勝手に会津藩がやってる」という住民も多く、

会津藩に住む人たちにとっては、決して賞賛されるような

良い藩ではなかったといえそうなのです。

 

歴史に100%の善も100%の悪もない

 

幕府も尊皇攘夷派(そんのうじょういは)も、どちらが悪でどちらが正義と決め付けるものはありません。

個々の判断、事件で是々非々で、未来の人間が評価をすることはできますが、

全体を捉え、乱暴にカテゴライズして、幕府は無能、無策でどうしようもない、

又は尊王攘夷派は私利私欲で動いたテロリストの集団だと決め付けるのは

全く持ってありえない話です。

 

どちらも時代と言う未来の見えない枠の中で、

必死に日本の安全保障を考えていたことは確かでしょう。

攘夷にしても、幕府は建前上はその姿勢をとっているわけです。

ただ、現実として不可能であることを知っている。

しかし、攘夷派にしてみれば、その危機意識は半端ではないのです。

高杉晋作

 

どのような手段を使っても日本の植民地化を防がねばならないと決心したのは、

清を見てきた高杉晋作(たかすぎしんさく)でした。

そこに私利私欲があったかといえば、どう考えでもありそうにないです。

 

吉田松陰にしても、いかにして敵に勝つかを考える「軍学者」なのです。

その考えが時代の中で得られる情報で出した結論を、

未来が後知恵で批判するのはたやすく、それはあまりにフェアとはいえないことです。

歴史の中、少なくとも幕末の日本の幕府と攘夷派のどちらかを

一方的に悪であると決め付けることはできないのです。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

吉田松陰にテロリスト論の発端となった原田伊織氏の

『明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』は、

幕末に関して言えばかなり資料をよく読んでいます。

その解釈の仕方は別としてもです。

 

しかし、「吉田松陰が導いた大東亜戦争(だいとうあせんそう)への道」などは突拍子もなさすぎです。

陸軍の主導権を握ったのが統制派であり、

その派がどのような形で成立してきたのか知っていれば、

藩閥支配云々と大東亜戦争を結びつけるのは

無理があることはすぐに分かります。

 

歴史は多くの要因が結びつきます。シンプルで分かりやすい論は受けるのでしょうか、

歴史はそんなにシンプルに動きはしないのです。

 

説明できることと証明の間には越えることの出来ない壁があり、

そしてこの論の書かれた本はあくまでも「歴史・エンタメ本」であり

少なくとも「歴史学」の本ではないと言えるのではないでしょうか。

その面白さ、分かりやすさゆえに、大きく広がったのでしょう。

その点の作者の力量だけは抜群というしかありません。

 

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