『江藤新平と大久保利通、明治の政治闘争について考えよう』では、明治六年政変で江藤新平らが下野してから佐賀の乱に至るまでの過程を取り上げました。最初に佐賀の乱についてまとめます。次に、これまでの江藤新平と佐賀の乱に関する記事と異なり、佐賀県の観光地として江藤新平のお墓と佐賀の乱の慰霊碑について取り上げます。
征韓党、憂国党、佐賀の乱は連合軍だった?
『江藤新平と大久保利通、明治の政治闘争について考えよう』では、佐賀の乱の過程を取り上げました。1874年、明治政府を去った江藤新平は佐賀で反乱を起こしました。佐賀で征韓論賛成者の征韓党と日本を封建主義に戻す憂国党が結成され、その連合軍の兵の数は約5000に上りました。
征韓党と憂国党は方針が異なる集団に思われるかもしれません。征韓党を率いた江藤と憂国党を率いた島義勇については仲が悪かったのですが、明治政府軍に共に対抗するという決意を固めたため、征韓党と憂国党の連合軍として戦うことができました。
佐賀の乱、どんな戦いだったの?
佐賀の乱は1874年2月16日に勃発しました。当初、江藤新平らが有利に戦いを進めますが、『江藤新平と大久保利通、明治の政治闘争について考えよう』によれば政府軍は巻き返しました。1874年2月23日の寒津川・田手川の戦いで江藤らは政府軍に負け退却しました。江藤は戦況が不利になったと判断し、鹿児島の西郷隆盛に助けを求めるため戦線を離脱します。
同年2月27日には江藤は鹿児島に入りましたが、西郷に断られました。今度は土佐に向かい板垣退助らに助けを求めましたが、断られました。土佐には指名手配写真が出回っていたので3月29日に江藤は逮捕されました。江藤らの逮捕により佐賀の乱は終わりました。
江藤新平のお墓に参拝すると…?
江藤新平は佐賀の乱後の裁判で死刑となりました。江藤の刑罰は梟首で、首が3日間晒されていました。梟首の刑の場合、財産は没収されるだけでなく、家族らによる弔いも禁止されていました。当時、地元の人々は江藤新平に同情する人が多かったと言われています。
江藤新平の墓に参ると眼病が治る・訴訟がうまくいく・災いが去るなどの迷信があり、人々に信仰されてきました。1919年、明治政府は江藤新平に対して特赦を行いました。特赦が行われたことに伴い、佐賀の乱の慰霊碑が建てられました。
佐賀の乱、慰霊碑に出かけよう
佐賀の乱の慰霊碑は佐賀城の近く本行寺にあります。本行寺は佐賀駅から徒歩28分、佐賀大和インターチェンジから車で約30分の場所にあります。1874年2月16日に佐賀の乱は勃発し、10日余りで江藤新平らの軍は敗退を繰り返しました。3月に江藤らが土佐で逮捕され、死刑判決を受けて佐賀の乱は終結しました。毎年4月3日、佐賀の乱の戦死者の霊を祀って慰霊祭が行われています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は江藤新平と佐賀の乱について取り上げました。江藤新平は近代司法制度の父と呼ばれ、近代国家の基礎を築いた人物として評価されていますが、佐賀藩の藩士だった頃にどのようにして西洋の政治制度や法律に関する知見を得たのか気になります。
幕末の佐賀藩は反射炉を設けるなど西洋化していました。今後、明治政府の司法卿としての江藤新平だけでなく、佐賀藩士時代の江藤新平や佐賀藩の西洋化と江藤新平との関係にも注目したいと思います。佐賀の乱の後、裁判で江藤新平は処刑されました。梟首という刑で、明治政府から賊として扱われてきましたが、江藤の墓に参ると眼病が治る・訴訟がうまくいく・災いが去るなど地元佐賀の間で迷信がありました。江藤が天才であったことや近代司法制度の父として高く評価されている証拠であると言えるかもしれません。
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