幕末、浦賀にやって来たアメリカのペリーは日本を開国させた人物ですね。威圧的で強硬な態度で交渉し、日本人の持つ「アメリカのイメージ」そのままと言う感じがします。確かにペリーはアメリカ海軍の水兵や士官からも影で「熊親父」とあだ名されるほどに、傲岸不遜でドラ声の怖い提督であったようです。
しかし、ペリーにはそれだけではない一面がありました。黒船を率いて日本を開国させたペリーの性格について調べてみました。
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ほとんどプロレスラー身長193センチの熊親父
ペリーは熊親父というあだ名に違わぬ巨体の持ち主でした。日本人の残している当時の似顔絵でも初期のものは、天狗や鍾馗様のような恐ろしい姿で描かれています。それだけペリーには威圧感があったのでしょう。日本人で民衆思想家・菅野八郎はペリーを実際に見て身長を6尺4から5寸あったと記録しています。これは193センチから195センチという身長になります。
当時の日本人の平均身長は155センチ程度ですから、日本人からすれば巨人といっていいペリーに対し鬼のようなイメージをもったのでしょう。当時のアメリカ人の平均身長も今よりは低いですから、ペリーはアメリカ人としてもかなり大柄です。現代にいても大型プロレスラー並みの身長があることになります。
似合わない?技術将校としてアメリカ海軍を近代化
ペリーはごっつい顔と体に似合わず、元々は技術将校としてアメリカ海軍内でキャリアを積んできた人物でした。ペリーは米英戦争ではふたりの兄と共に戦っており、実戦経験が無いというわけではありません。しかし、本来は技術畑の将校だったのです。
ブルックリンの海軍工廠(海軍直轄の軍艦造船所)の司令官となり、アメリカ海軍が始めて保有した蒸気船フルトン号を建造しています。ペリーは蒸気船建造に関わり造詣も深く、アメリカ海軍、艦艇の蒸気船切り替えを訴えました。この行動からペリーは「蒸気船海軍の父」と呼ばれています。
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自費1億円を投入し日本を研究した読書魔
アメリカが浦賀に来航したのは実はペリーが最初ではありません。ペリーの来航する7年前にジェームズ・ビドルという海軍士官が浦賀にやってきました。しかし、通訳の行き違いでしょうか、乗船してきた武士に殴られ、抜刀寸前までの騒動を起こしてしまいます。この件は幕府が謝罪をし大きな問題にはならなかったものの、ビドルは成果を上げることなく帰国することになりました。
ペリーはこの件を知り、日本に対し徹底して研究を開始します。自費1億円を投入し、日本関係の書物を集め分析を開始したのです。当時、日本について書かれている本はそれほど多くはありません。そのような状況でペリーは対日交渉のための研究を開始します。
ペリーは林子平の「三国通覧図説」の翻訳版を読んでいたという説もあります。また、ドイツの医師・博物学者で日本に長く滞在し、ヨーロッパにおける日本学の権威であったシーボルトの書いた「日本」を購入しました。「日本」の価格は現在の貨幣価値にすると約200万円となります。ペリーは金に糸目をつけず、日本を徹底的に研究する読書魔だったのです。
アメリカ海軍の英雄の兄を超えるべく開国にチャンスを見出す
ペリーには偉大な兄がいました。オリバー・ハザード・ペリーです。アメリカでの知名度は日本を開国させたマシュー・ペリーより上かもしれません。ちなみにウィキペディアの英語版では記事の引用元は兄の方が倍近い61件の資料を引用しています。偉大な兄は英米戦争で戦い、エリー湖の戦いでアメリカの勝利をもたらせた軍人として「エリー湖の英雄」と呼ばれています。
弟のペリーは兄を超えるべく、日本の開国に挑み、それを成功させます。しかし、アメリカでの知名度は兄を超えることはできなかったようです。運の悪いことに、日本開国から間をおかず、アメリカは南北戦争に入りました。この戦争の被害は大きく、アメリカ社会に大きな衝撃を与えます。一説では国内で60万人以上の戦死者を出したといわれます。そのため、直近で起きたペリーの功績が霞んでしまったという点があるのでしょう。
傲岸不遜だが日本人を冷静に分析したペリー提督
ペリーは対日交渉においては幕府高官以外とは交渉せず、副官を表に出すなど、自分を神格化するかのような傲岸不遜な態度で日本に対峙します。しかし、一方ではペリーは技術畑出身の軍人らしく、日本人を冷静に分析しているのです。ペリーは日本に多くの西洋文明の技術を示す製品を持ち込みました。小型の蒸気機関車なども持ち込んでいます。
日本人はこのような進んだ西洋の機械装置に対し、ただ驚くだけではなく、細かく観察し、触って確認しようとします。そして、黒船に乗船した日本人は、隅々まで探索し、寸法を測って、構造を写生までします。ペリーは日本国は技術的に遅れてはいるが、日本の知識階層は、その技術についてかなり理解していると評価しています。また、ペリーはそのような日本人の素養に対し「アメリカの強力なライバルとなる」という予言めいた記録も残しています。
浮気もなく妻一筋、家族を愛した典型的なアメリカ人
ペリーは20歳のときに結婚しています。妻は献身的で、ペリーもその妻を愛し、家族思いの父親でした。古きよきアメリカの典型的な家族像を体現したかのような一家だったのでしょう。ただ、ペリーは恐妻家の一面があり、妻の言うことに逆らえないと言う部分もあったようです。息子たちは全て海軍軍人となり、父の後を継ぐ形となります。海軍軍人として家を留守にすることが多いペリーは家族へ、子どもたちが兄弟げんかしないようにと注意する細やかな気を使う手紙を送っています。ペリーは、非常に家族思いで、妻一筋の人物だったのです。
幕末ライター夜食の独り言
ペリーは事前に日本を研究し、強硬な態度で交渉した方が成果があがると判断しました。友好的に接するよりは、蒸気船を見せつけ、軍事力、技術の優位を見せつけ、威圧的に接する方が成果が上がると判断しました。
高圧的で恫喝的な交渉態度は、日本に降参のための白旗を送ったという逸話も残っているくらいです。そんなペリーですが、軍人としては技術者よりであり、また家庭を持つ父親としては、古きよきアメリカの父親像を体現したような人物であったようです。
技術出身の合理的な精神が、日本を分析した結果、効果のある方法として砲艦外交ともとれる恫喝的な交渉を行ったのでしょう。ペリーは決して日本人を見下していたわけではなく、残した記録からは、むしろ日本を高く評価しています。これも、合理的、技術者的視点で日本人を評価したのではないでしょうか。
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