奴隷というと大変に暗いイメージですよね。自由もなくいわれなく迫害され、主人の虫の居所次第で虐待されてしまう人間平等の観点から見れば、この世から無くすべき負の存在です。
三国志の時代にも、奴婢として奴隷身分が存在していましたが、それは、今日考えるような人生の終わりのような暗いイメージの存在ばかり・・ではありませんでした。
そもそも奴婢とは何か?
いわゆる奴隷は中国では奴婢と言います、奴は男の奴隷で婢は女の奴隷でした。中国では、自由民である良民と行動に制限がある賤民に身分が分かれていて、奴婢は賤民階層に属していて、労働力の中核をなしました。
周の時代には、犯罪者が奴婢の身分に落とされ、男は重労働で使役され、女は米搗きや炊事に使われていました。当初の奴婢は国家が所有する官奴、官婢でしたが国家も奴婢を大量に抱えると食費のような経費ばかり掛かって仕方ないので、一定数を超えると人買いに売り飛ばし、人買いは、これを奴婢市場で民間に売買します。
奴婢は、牛馬と同じ扱いとされ、漢の時代には、仕切りがある部屋の中で買い手に向けて陳列されていました。漢書の賈誼伝には、少しでも高く売る為に奴婢に絹の衣装を着せて、縁飾りのある下駄を履かせた売主の記録があります。
また奴隷が財産になると、人を誘拐して売り飛ばすブローカーも暗躍します。いわゆる人さらいですが、民間の奴婢のかなりの数が、こちらでした。これは人の往来が盛んになった魏晋の時代に増えます。
周の時代までは厳密な戸籍を造り、住人を把握していましたから、見ない顔がいると役所にバレていましたが、流民が横行して戸籍が無意味になるとそれが出来なくなって人さらいが盛んになった事になります。
債務奴隷としての奴婢
官奴・官婢は犯罪者を奴隷の身分に落としたものですが、一般では、借金を抱えて返済不能に陥った人々が最期の手段として自分を売りました。大昔は、多くの庶民には財産などなく土地は国家からの借り物なので返済に困ると自分か家族を売って奴婢になるしかなかったのです。
このような奴婢は犯罪を犯して奴婢になったケースと違い、契約書を交わして奴婢になっていたので、契約によって奴婢の期間は一生涯から有期、弁済して自由になれる/なれないという取り決めがありました。斉の宰相の晏嬰は晋に行った時に、奴婢に身を落とした越石甫を見つけどんな契約で奴婢になったか?を尋ね、弁済で解放されると聞いたので、連れて来た予備の添え馬を主人に渡して越石甫を買い戻しています。不思議な事に同じ奴婢でも国家の奴婢の方が少し民間より偉かったようです。数としては圧倒的に民間の奴婢が多いものでした。
三国志のあの人は大量の奴婢を抱えていた
時代が進んでくると、社会にも大金持ちが出現しそれらが競って奴婢を持ちました。前漢時代には、あまりに王侯の抱える奴婢が多く、農民の仕事を奪うので、その数を規制するという法律が出されたりしています。
しかし、そんな取り決めは守られなかったようで、三国志に登場する徐州下邳の大旦那で、劉備の金ヅル麋竺は1万人という奴婢を所有していたと蜀志に出ています。
キングダムに登場する大商人呂不韋も、奴婢を1万人抱えていたそうですから、麋竺って時代は隔たるとはいえ、相当な大金持ちですね。劉備は、こういうスポンサーを探し出すのが本当に上手です。
当時、奴婢は堂々たる財産であり、相続すべきモノでした。楚漢戦争で名を馳せた謀臣の陳平は、奴婢百人を陸賈に贈っています。奴婢は贈答品でもあったのです。
大量に売買され価格が安定していた奴婢
奴婢のマーケットはかなり巨大であったようで、値崩れが起きて、市場の暴落が起きないように、標準価格が定められていました。春秋戦国の頃は1万五千銭、梁の劉整の時代には七千銭だったようです。しかし、実際には、奴婢にも老幼、体力の大小があると考えられるのである程度値幅を決めて、その範囲内で売買していたのでしょう。そんな奴婢ですが、昔程扱いが過酷で周や秦の時代までは、主人は役所に理由を告げて、奴婢を殺害する権利を持っていました。
さすがに、これはひどいというので、前漢の文帝の時代には、官の奴婢を解放して庶人にしたりして人権の擁護が図られ奴婢であっても主人が殺害してはいけないという法律が出来ます。
これは真面目に守られたようで、前漢の趙広漢は丞相魏相の夫人が婢を殺害したとして告発しています。この一件は虚偽で、夫人の婢は鞭打ちされて叱責された後に自殺したのですが、奴婢の殺害が当時、罪になった事が分かります。
その後光武帝の時代には奴婢を殺害したり、虐待する事を罪とする法律が出来てその後も概ね、奴婢でも殺害は許されませんでした。
しかし、殺害が禁止されただけで、主人が奴婢を鞭打つ権利は残され例えば密室で行われた虐待の末の殺害は、誰も告発しない場合には、病死として扱われるなど、奴婢の人権は非常に軽いものでした。
プチ奴婢、傭人
奴婢のような賤民ではなく自由民である良民であっても、一時的に金に困るようなケースはありました。そのような場合には、最小で1日、長い時には数年という期間で他人に身売りし賃金を受けるという傭人という雇用形態がありました。
古くは春秋戦国時代から存在しましたが、次第に盛んになり、魏晋の時代には、とても多くなったと言われています。もっとも期間が短い、数日の傭人を客作と言い、後漢の夏馥や、魏の焦先も行いました。傭人は元々良民なので自由があり、かつ、お金が稼げるので需要と供給が上手くかみ合い、官公庁や民間まで広く使われました。食うに困れば傭人になって、お金を稼ぐのは恥でもなんでもなく古人は、身一つを売ってお金に換えていたわけで、期限付きのプチ奴婢のようなものですね。しかし、傭人は南北朝の頃から、段々いなくなりました。
次第に物が豊かになり、財産というものが生まれて身売りをしなくても困窮をしのげるようになったからです。逆に言えば、三国志の時代は良民階級でも大半は自分の身以外に貨幣価値のある物を持たない質素な人が多かったでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
奴婢は、三国志の時代の労働力の中核を占めていました。そればかりではなく、税金を支払えなくなった農民が土地を捨てて豪族の庇護を受けて小作になるのも、過酷な労働条件下で、農業や雑用、時には兵士として使役されるのを考えると、実質、良民階級でも奴婢と待遇は変わりませんでした。
一方で罪を犯して奴婢にならない場合には、契約書の内容次第では、金銭やモノで自分を買い戻し良民に戻る方法もあったので、奴婢と言っても一様ではなかったのですね。
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