現代の日本でアメリカとロシアでは、アメリカが好きな人のほうが多いでしょう。
また、日本国としてもどちらが友好国かといえば、当然アメリカの方です。
しかし、幕末時代では幕府の中では圧倒的にロシアに対する印象が良かった時期がありました。
それは、ロシアの遣日全権使節であったプチャーチンの人柄と日本への接し方にありました。
幕末の日本人に敬愛されたロシアのプチャーチンはどのような人物だったのでしょうか。
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この記事の目次
ロシアの海軍軍人として手柄をあげたプチャーチン
プチャーチンは、幕末にアメリカのペリーに続き日本に来航したロシアの遣日全権使節です。
プチャーチンはノヴゴロド貴族の家系につながる人物で、
海軍士官学校を卒業しロシア海軍で活躍します。
ギリシア独立戦争、コーカサス戦争などに従軍し2度勲章を得ています。
また、ペルシャに派遣され、海賊の掃討、ガージャール朝ペルシアとの交渉で
交易権・漁業権の獲得や、ヴォルガ川の航行権を認めさせるなど外交的な手腕も発揮しています。
プチャーチンはイギリスがアヘン戦争に勝利し極東方面に勢力を伸ばしていくことを懸念し、
ロシア皇帝に自身の極東派遣を提言します。
そして、プチャーチンは遣日全権全権使節となり、日本へ向かうことになります。
このとき、プチャーチンは中将になっています。
「紳士的にやれ!」皇帝の命令を遵守する律義なプチャーチン
ロシア皇帝ニコライ1世は、ヨーロッパ情勢が不安定であり、
極東で新たな問題を抱えることを避けるため、日本に対しては「紳士的にやれ!」と命じます。
高圧的で武力行使も選択肢にあったアメリカのペリーとは対照的です。
プチャーチンはこの命令に従い、終始一貫して日本に対し紳士的な対応を続け、
幕府の外交窓口である長崎に来航します。
プチャーチンは皇帝の命令だけではなく、当時のヨーロッパで
最も知日家のひとりであったシーボルトから
日本に対しては紳士的に対応すべきであると言われていました。
よって、とにかくプチャーチンは律儀に紳士的に対応します。しかし、あまりに紳士的すぎて、
高圧的なペリーへの対応が優先され、後回しにされてしまう不運な目に遭うのです。
紳士的態度が仇になり幕府に無視されるプチャーチン
プチャーチンは紳士的な態度で日本に接します。長崎という幕府の外交窓口で交渉を待ちますが、
幕府の方は浦賀にやってきて、典型的な砲艦外交を展開するペリーへの対応を最優先にします。
幕府は、長崎にいるプチャーチンよりも、ペリーの方がリスクが高いという判断をします。
プチャーチンとの交渉は進まず、しかも幕府は交渉が開始しても、
交渉担当者の川路聖謨にズルスルと時間稼ぎすることを命じます。
そして、不穏であったヨーロッパ情勢が動き出します。クリミア戦争が発生し、
プチャーチンは対日交渉で、日本が他国と条約を結んだ場合、ロシアも同条件の条約を結ぶという
覚書を得た上で、いったん日本を去りロシア沿海州のインペラトール湾に戻ります。
【転機】安政大地震の人命救助が幕府を感動させる
プチャーチンは再び日本に戻ってきました。幕府は下田での外交交渉を要求し、
プチャーチンは下田に向かいます。
その後、川路聖謨等と交渉を再開した直後に安政の大地震が発生し、下田は津波に襲われます。
その際、プチャーチンは津波で溺れる日本人を救出します。
津波のせいでプチャーチンの船も大破しますが、
この行動が幕府のロシアに対する好印象になりました。
友情が結んだ日露和親条約
安政の大地震で家屋の9割が倒壊するという大きな被害を受けた下田で
プチャーチンは船医を派遣して負傷した日本人の治療にも当たります。
津波に飲まれた日本人の救出も行っており、このことが幕府の印象をかなり好意的にします。
非常事態にプチャーチンにそのような計算があったわけではないでしょうが、
その後、川路聖謨との交渉が進み、日露和親条約が結ばれます。
プチャーチンの日本に見せた友好的な態度が、幕府を動かした面があったのでしょう。
【初めての日露合作】ヘダ号が取り持つ日露の友情
安政の大地震で下田の町も壊滅的な被害を受けましたが、
プチャーチンの船、ディアナ号も無事ではありませんでした。
排水量2000トンの当時としては巨艦といっていいディアナ号も津波に飲み込まれ大破します。
マストはへし折れ、浸水も激しく、船員には死傷者もでました。
辛うじて浮いている状態で、修理するために伊豆西海岸の戸田に向かいますが、
風と潮流に流され、富士郡宮島村沖に停泊し、ボートに積荷を乗せ船から陸に降ろしします。
軽くしたディアナ号の航行を地元漁民と協力して行いますが、
損傷が激しくあえなく沈没してしまいます。
プチャーチンをはじめ船員は無事でしたが彼らは帰る船を失ってしまったのです。
プチャーチンは代船の建造を幕府に願いでます。
幕府も許可し、修理予定だった戸田での造船が開始されました。
プチャーチンの代船は、日本初の西洋式造船となりました。
日本の船大工とロシアの造船技師の共同作業によって、船は完成し、
プチャーチンは感謝の気持ちから船の名を地名からとり「ヘダ号」とします。
日露合作のヘダ号は、日本にとっては西洋式の造船技術を学ぶ機会になりました。
また、プチャーチンも日本側の対応に恩義を感じ、
当時のヨーロッパ人としては珍しい本当の親日家になっていきます。
本当の親日家プチャーチンと日本人の交流
プチャーチンはロシアに帰ってからも親日家として、日本からの留学生の受け入れや、
ロシアに日本公使館ができたときにはいろいろな便宜を図っています。
プチャーチンの親日的行動に対し、明治政府も外国人として初めて
勲一等旭日大綬章を贈っています。日本で最高の勲章です。
プチャーチンは死ぬまで親日家であり、その思いは娘にも引き継がれます。
彼の死後、娘のオーリガが戸田村に100ルーブルを寄付しています。
現在でも戸田には、引き上げられたディアナ号の錨や、日用品などが保管されています。
幕末ライター夜食の独り言
アヘン戦争後の極東における列強進出に出遅れまいとするロシアの国益のために
プチャーチンは日本の全権使節となり、日露和親条約を結びます。
平和的に日本と交渉することは皇帝の命令であり、
プチャーチンも日本人の面子を重んじる部分を、シーボルトから助言されていました。
そのため、日本の顔をたて、紳士的に日本と交渉に当たりました。
幕府の交渉引き伸ばし作戦の中でも焦らず粘り強い交渉を行いました。
安政の大地震のときの友好的な対応は、幕府の態度を大きく軟化させます。
一時は幕府内にロシアに頼って他の国をけん制しようという意見もでたくらいです。
この案は交渉相手であった川路聖謨が反対しますが。
ロシアの国策や思惑は当然、ロシアの国益を考えたものでしょう。川路聖謨の主張は正論でした。
しかし、プチャーチン自身は本当の親日家になります。
安政の大地震で日本人と苦難を共にしたこと、交渉相手だった川路聖謨の人格もあったのでしょう。
彼は、死ぬまで親日家でした。
プチャーチンについては「ペリーの次に日本に来たロシアの人」という印象があればあればいい方で、
その知名度はペリーと比較するレベルでないほどに低いです。
しかし、プチャーチンが示した日本への友情、当時のロシアに真の親日家がいたことは、
今の日本人も記憶していいことではないでしょうか。
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