【薩摩vs大英帝国】薩英戦争は勘違いから始まったってホント?


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イギリス艦隊

 

19世紀のイギリスは強大な海軍力で世界の20%を支配していました。

そんな大英帝国(だいえいていこく)に戦いを挑んだのが日本の南の端、72万石の薩摩藩(さつまはん)です。

1863年の8月15日オーギュスト・クーパー少将が率いる七隻のイギリス艦隊が

鹿児島湾に侵入、開戦前の交渉も破綻し、両軍は戦闘状態になります。

しかし、この戦争、実は勘違いから発生したものでした。

 

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生麦事件の賠償金支払いを拒否

生麦事件と島津久光

 

事件の発端(ほったん)は、前年の生麦事件(なまむぎじけん)でした。

1862年、9月14日上洛を果たした島津久光(しまづひさみつ)は、江戸に上った帰途、

神奈川県横浜の生麦村を通過途中にイギリス人リチャードソンの一行4人が、

馬で薩摩藩の大名行列を遮るという事件に遭遇します。

 

当時の国法では、産婆(さんば)や医師()以外は大名行列には道を譲るのが慣例でした。

しかし、リチャードソンは「下馬して道を譲れ」という警告に従わず

ますます久光の駕籠(かご)に接近、やむなく薩摩藩士が抜刀して飛び出し

リチャードソンを殺害、2名を負傷させました。

リチャードソン

 

イギリスは日本人が外国人を裁く事を禁じた治外法権を盾に、

事件の犯人の処分と賠償金(ばいしょうきん)を幕府と薩摩藩に求めます。

幕府は渋々、10万ポンドを支払いますが、イギリスの代理公使のニールは

薩摩藩にもリチャードソンの遺族の養育費として2万5千ポンドと

犯人の逮捕と処罰を要求します。

島津久光

 

しかし久光は「国法に従ったまでで何も(やま)しい所はない」と言い

犯人の引き渡しも賠償金の支払いも拒否しました。

 

激怒したニールは、軍艦ユーリアラスを旗艦とするイギリス艦隊を

鹿児島に派遣して直接交渉を求めてきたのです。


鹿児島での交渉も不調に終わる

鹿児島での交渉も不調に終わる

 

1863年、太陽暦の8月12日、七隻のイギリス艦隊は鹿児島湾に侵入し、

鹿児島城下まで1キロの所に投錨しました。

薩摩藩は臨戦態勢に入り、前年の寺田屋事件で謹慎処分を受けていた藩士も

全員が許されて戦闘準備に入りました。

 

同日、伊地知正治(いじちまさはる)等4名を乗せた小船が旗艦のユーリアラスに向かい乗船

ニールは、賠償金2万5千ポンドと犯人の処罰を重ねて要求した親書を手渡します。

 

伊地知等は親書を受け取り一度、城下に帰り、翌日再び、やってきて

文書のやり取りでは埒が明かないので鹿児島城内での交渉を呼びかけます。

しかし、ニールは我々は交渉するつもりはなく、こちらの要求を呑むか拒否するか

二つに一つであると城内での交渉を拒否しました。

 

これを受けて薩摩藩でも「生麦事件の責任は当藩にはない」と回答を送ります。

イギリス艦隊は、桜島の横山村、小池村の沖合に移動しました。


大久保一蔵渾身の作戦、西瓜売り決死隊

大久保利通

 

これ以前、イギリス艦隊は薩摩藩に薪と水の補給を打診しました。

そこで、もはや戦争は避けられないと考えた薩摩は、先手必勝と

大久保一蔵(おおくぼいちぞう)が中心となり、西瓜(すいか)売りを偽装した決死隊を送り込んで、

ニールとクーパー少将を殺害してイギリス艦隊を奪い取る計画を実行します。

 

西郷慎吾(さいごうしんご)従道(つぐみち))、大山弥助(おおやまやすけ)(いわお)有村武次(ありむらたけじ)海江田信義(かいえだのぶよし)

奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)等、薩摩藩士でも腕に覚えのある有能な100名余りの藩士は、

島津久光、藩主忠義と決死の水盃を交わしてから商人に扮装し、

八隻余りの小船に分乗してから「西瓜はいらんかェ~」と声を出しながら

旗艦ユーリアラスに近づいていきました。

スイカ売り

 

しかし、これまで誰一人船に近づいてこなかったのが、いきなり八隻の

西瓜売りが大挙して接近してきたのです。

イギリス側は明らかに警戒して、西瓜売り達に乗船を許しません。

 

「乗せろ、乗せない」の押し問答の末に、西瓜売りの一人が、

藩主からの親書を預かっている素振りを見せたので、

ようやく船二隻、40名余りは乗船を許可されました。

 

40名は挙動不審で、話を引き延ばし陸上からの作戦決行の合図を待ちますが

途中で久光が「あの作戦は見抜かれている無理だ!」と作戦中止の船を出し

それを見た40名は顔面蒼白、しどろもどろで急いで船を降りると、

残りの六隻と共に蜘蛛の子を散らすように逃げていきました。

 

「何だったのだ、今のは?」

まさか西瓜売りが自分達を襲撃するつもりだったとは知らない

ニールとキューパーは変な顔をしていましたが、

これで戦争は避けられないと見た久光と忠義は大砲の射程範囲の鶴丸城から

鹿児島県常盤(ときわ)の千眼寺に移動し、ここを本陣としました。

 

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西郷どん

 

イギリスは薩摩藩の汽船三隻をゲットし、薩英戦争の火蓋が切られる

薩英戦争の火蓋が切られる

 

「もはや一戦しかなか!」そう思い詰めた薩摩藩に対して、

イギリスは本気で一戦交えるつもりはありませんでした。

 

「どうせ、薩摩も幕府と同じで軍艦で脅せば金を出すだろう」そう思って

鹿児島湾に停泊していた、天祐丸(てんゆうまる)青鷹丸(せいようまる)白鳳丸(はくほうまる)の三隻の蒸気船に

乗り込み乗組員を殺傷したり、人質にするなどして拿捕したのです。

 

※黄色の丸で囲った部分

 

三隻は最近、薩摩藩がアメリカやイギリスから購入した新品で、

総額は三十万両、イギリスが要求する賠償金、2万5千ポンドの倍の価値でした。

イギリスは、蒸気船を質草に船を返して欲しければ要求を呑めと

交渉のカードに使うつもりでしたが、この行為は薩摩藩を激怒させます。

 

「人の船を盗む異人は泥棒でごわす、問答無用チェストー!」

大砲を放つ薩摩藩

 

久光と藩主の忠義は軍議を開いて断固報復を決意し、斉興(なりおき)時代から、

整備した沿岸砲による砲撃を命令します。

 

大久保一蔵は藩主の命令を受けて、折からの暴風雨をついて

天保山の砲台に向かい、砲撃の命令を下します。

それを合図に鹿児島湾のイギリス艦隊に向けて、8カ所の砲台が一斉に

火を噴きました。

 

イギリス艦隊、大慌てで反撃に転じる

イギリス艦隊

 

驚いたのはイギリス艦隊です、反撃などないと高を括り、

湾内深くに錨を降ろしている上に拿捕(だほ)した薩摩藩の汽船を三隻曳航していて

身動きが取れない状態で砲撃を受けたからです。

しかも、対岸の袴腰砲台からの一撃がパーシューズ号に命中、

戦死者と死傷者を出してしまいます。

 

クーパー少将は拿捕した三隻を切り離す事を決断し、貴重品を分捕った上で

船に砲撃を加え、最後に火をつけて桜島の沖に放置します。

 

「毛唐どもめ、よくも藩の船を許さーん!」

 

藩の蒸気船を燃やされた薩摩藩はますますエキサイトし、

雨あられと砲弾を撃ち込みます。

砲撃から2時間、ようやくイギリス艦隊は体制を整えて、

単縦陣を取りながら、南下しつつ鹿児島城下を砲撃して回ります。

 

しかし、折からの暴風雨で操舵が不安定なユーリアラス号は、

あまりにも陸地に近づきすぎ、弁天波砲台の攻撃をまともに受けました。

弁天波砲台の攻撃をまともに受ける

 

この砲弾は指令室を直撃し、艦長のジョスリング大佐と数名の幕僚(ばくりょう)が戦死、

クーパー少将も吹き飛ばされて軽傷を負います。

さらにレースホース号は、祇園洲(ぎおんす)の砲台の破壊に成功しますが、

これも暴風雨に流された上に機関の故障で浅瀬に乗り上げます。

 

砲が使えなくなった船員は小銃を構えて陸に向かって銃撃しました。

レースホース号大ピンチですが、祇園洲の砲台は破壊し尽されていた上に

薩摩藩はレースホース号が座礁したとは思っておらず、

上陸の準備をしていると捉え、砲台の陰で息をひそめて上陸を待ちます。

 

そのうちに、イギリス艦隊からコケット、アーガス、ハボットが救援に来て

レースホース号を曳航(えいこう)、ようやく離礁できました。

 

夜になりイギリス艦隊の反撃が本格化するが・・

 

夜になると、再び、ひと塊になったイギリス艦隊の反撃が本格化します。

炸裂弾であり射程も長いアームストロング砲が、

薩摩の沿岸砲が届かない位置から、絶え間なく砲撃を繰り返したのです。

 

これにより、薩摩に来ていた琉球の船が被弾し炎上、与那城王子(よなぐすくおうじ)は、

陸地に避難して九死に一生を得ます。

さらに砲撃はロケット弾を用いて集成館、さらには鹿児島城下を焼きました。

その間にも、薩摩藩の砲台は、逐一位置を確認して砲撃され次々に大破

 

攻撃力を失った薩摩藩は、後は上陸戦で薩摩隼人の剣の切れ味をお目に掛けると

意気込みますが、戦死13名、負傷者50名、戦艦の大破1隻、

中破二隻の損害を被り、また、元々戦うつもりではなく戦争準備も出来ていない

英国艦隊は、8月17日に鹿児島湾を出ていきました。

 

実質一日半で薩摩vs大英帝国の戦いの幕は下りたのです。

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

薩摩藩はイギリスに比べて人的被害は少ないものの、市街地の10分の1が焼け、

集成館も焼き払われ、新品の蒸気船などを失うなど被害甚大でした。

しかし、これを契機に薩摩藩では攘夷(じょうい)の無謀を悟り、逆にイギリスから軍艦や

武器を購入したり、留学生を派遣するなど関係を深めていきます。

高い代償でしたが、薩英戦争は明治維新(めいじいしん)で薩摩が主導的な役割を果たす

契機になったのです。

 

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