【悲報】天皇に振られた長州藩、八・一八の政変はどうして起きた?


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桜田門外(さくらだもんがい)の変の後の幕末は幕府(ばくふ)薩摩(さつま)長州(ちょうしゅう)の天皇の奪い合いでした。

その中で急激な攘夷(じょうい)を訴えていたのは長州藩ですが、八・一八の政変で失脚し

京都を追放される事になります。

この事件を契機に翌年の禁門(きんもん)の変、さらに長州征伐へ時代は動いていくのですが

では、八・一八の政変はどんな理由で起こされたのでしょう。

 

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公武合体の高い代償、攘夷を約束させられた幕府

 

大老井伊直弼(いいなおすけ)が殺害されてより、幕府権威の凋落(ちょうらく)はひどいものでした。

力の回復を図った幕府は、一度は邪険にした孝明天皇(こうめいてんのう)に急接近し

天皇の異母妹の和宮(かずのみや)と14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)の縁組を申し出ます。

これは、首尾よく成功するのですが、代償は高くつきました。

和宮降嫁の代わりに、諸外国と結んだ通商条約を破棄して和親条約に戻す事や

期限を区切り攘夷を実行する事を約束させられたのです。

 

幕府はこれを公武合体(こうぶがったい)の副産物程度に考えて、攘夷の期限を引き延ばせば

いずれ天皇も攘夷なんて無理だと分かるだろうと楽観していました。

しかし、幕府から攘夷の言質を取った事は、天皇ばかりではなく、

後に過激攘夷に傾く長州藩に幕府を攻撃する口実を与える事になります。


久光に攘夷の旗を奪われた長州が暴発する

島津久光

 

安政の大獄の後、後退した薩摩藩に代わって京都に進出したのは長州でした。

当初の長州藩は、後からは想像も出来ませんが、長井雅樂(ながいうた)の唱えた航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を採用し

幕府を温存したまま、貿易で富を蓄えて国力をつけて緩やかに攘夷する方法を

採用していました。

 

しかし、桜田門外の変以来、公然の話になった討幕(とうばく)を唱える過激派志士にとって

航海遠略策など、まるで物足りないガスが抜けたコーラのようなものでした。

長井雅樂の京都での交渉もうまく行かない間に、薩摩から島津久光(しまづひさみつ)が上洛します。

 

「斉彬公の異母弟である久光公が上洛されたという事は討幕に違いない

腑抜けた長州より薩摩について幕府を倒すんじゃ!」

 

久光の政治思想が公武合体である事を知らない攘夷派の志士は大挙して

薩摩藩になびきました、その結果起きたのが壮烈な同士討ちである

寺田屋事件でした。

 

自藩の尊皇攘夷派を粛清した久光ですが、その手際の良さが朝廷に評価され

また、文久の改革案を幕府に飲ませる事に成功したので、朝廷の覚えは目出度くなります。

 

いつの間にか攘夷の旗頭を奪われた長州藩は面白くありません。

そこで、藩内では長井雅樂の航海遠略策を弱腰と批判する松陰門下(しょういんもんか)久坂玄瑞(くさかげんずい)等の

勢いが盛んになり、長州は航海遠略策を放棄して、薩摩藩を超える即時攘夷決行を

幕府に突きつける過激な藩に変貌したのです。

 

単純に言うと全国の尊王攘夷派志士の気持ちを繋ぎとめる為に

「俺達の方が薩摩より攘夷だぜ!」と過激なスローガンを掲げたんですね。

新選組

 

過激な攘夷志士は開国派や幕府よりの要人を天誅(てんちゅう)と称して暗殺するなどして

幕府に圧力を掛け、従来の京都所司代では治安を担当できなくなったので

会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職として上洛し、ここに新選組(しんせんぐみ)などが

結成される事になります。

 

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一藩勤皇を成し遂げた土佐藩も上洛、再び京都は長州の支配下に

 

その頃、土佐藩でも公武合体派の重臣、吉田東洋(よしだとうよう)をテロで葬った武市半平太(たけちはんぺいた)瑞山(ずいさん))が

藩主の山内豊範(やまのうちとよのり)を奉じて上洛し即時攘夷を唱えていきます。

 

相性抜群の長州と土佐は連携を取り、朝廷工作に従事して、日和見な公家達(くげたち)は、

オセロのコマがひっくり返るように過激攘夷に鞍替えしました。

ここから、薩摩藩の旗色は悪くなり、朝廷の政治は長州と土佐の思うままになります。

両藩は江戸に将軍の上洛を要求する勅使を派遣し、また、朝廷に国事御用掛(こくじごようがかり)を設置

ここには関白以下29人が参画しましたが、大半は攘夷派の公家でした。

 

以後の長州はわっしょい状態で、幕府に一日も早い攘夷決行を天皇の名で命じ

自らも馬関で外国艦隊に砲撃を加えたり、将軍では頼りないから天皇に直接、

攘夷決行の指揮を執ってもらおうなどと暴走を始めます。

 

天皇を抑えた事で、幕府にも対等以上の口を利ける事に酔っていたのでしょう。

それに対して、幕府も老中、小笠原長行(おがさわらながゆき)等が兵をあげて過激な攘夷派を

京都から一掃しようという計画も持ち上がりますが、不発に終わりました。


自分勝手な長州藩に同じ攘夷派の藩からも不満が上がる

江戸城

 

しかし、しだいに長州藩の独裁にも破綻が近づいていました。

一緒に動いていた土佐藩では、土佐勤皇党(とさきんのうとう)の動きに批判的な山内容堂(やまのうちようどう)

政権に返り咲き、勤王党の粛清(しゅくせい)に着手したのです。

これで、片腕をもがれた形の長州藩は、権力を誇示するかのように

高飛車な対応を取り続け、長州の攘夷に非協力的であった事を理由に

幕府の頭越しに小倉藩の処分を行い始めます。

 

「俺達は頑張っているのに、諸藩はちっとも攘夷に熱心ではない

猛省せよ、ぷんすか!」

 

勝手に攘夷をやり、勝手に攘夷諸藩に当たり散らす長州藩に

次第に攘夷思想で路線が一致していた諸藩との関係は崩れていきます。

密談する幕府

 

つまりは、諸藩の中で

「天皇を擁してボス気取りのようだが俺達は長州の家来じゃないぞ」

そういう不満が渦巻いてきたのです。

このようになると、長州藩は御所の警備を固めていくようになり、

また天皇の許可も得ない勅書を乱発するようになります。

 

これにより孝明天皇の不信感は決定的になり、薩摩を引き入れて、

長州を京都から追放する方向で近衛忠煕(このえただひろ)に命じて薩摩藩の早期上洛を

促すようになります。


  

 

孝明天皇の真意を読み損ねていた長州

孝明天皇

 

長州藩は、孝明天皇の意を完全に読み違えていました。

天皇は攘夷を唱えていましたが、戦争を望んでいるのではなく、

通商条約を破棄して、元の友好条約へ戻し、開いた港も閉じて長崎だけにし

1854年頃の日本に戻して欲しいというのが理想でした。

 

そして、幕府の弱腰と二枚舌には呆れていても異母妹の和宮を嫁がせた以上

頼りなくても幕府が政治を行うべきだと考えていて討幕など考えていません。

孝明天皇

 

ところが、京都を牛耳る長州は、討幕と即時戦争も辞さないという態度、

おまけに攘夷戦争の指揮は天皇に執ってもらおうとわっしょい状態で

天皇が預かりしらない勅書を乱発するなど、自分勝手のやりたい放題、

これでは、天皇が長州を毛嫌いするのも無理もない事でした。

 

天皇は薩摩藩の武力に頼む予定でしたが、当時の薩摩は薩英戦争(さつえいせんそう)の痛手から

回復してなく、島津久光の上洛も難しいので、薩摩は京都守護職も務める

会津藩に接近していきます。

 

当時、会津藩は1500人と薩摩藩の150人の10倍の藩士が詰めていて

政変の成功は会津藩の武力によるものでした。

 

長州、天皇に振られる八・一八の政変

 

1863年の8月18日、深夜1時、中川宮と京都守護職松平容保が朝廷に参内し

ついで近衛忠熙、近衛忠房(このえただふさ)父子、右大臣二条斉敬(にじょうなりゆき)らも政変を支持しました。

 

 

こうして午前4時頃には会津、薩摩、淀藩(よどはん)(京都所司代)の兵が

御所の九門を警備する配置を完了したのです。

かくしてクーデターは成功し、三条実美ら急進派公家15人に外出禁止や

他人との面会の禁止を命じます。

 

8時過ぎから呼び出しを受けた土佐、阿波(あわ)因幡(いなば)、米沢などの諸藩主が

続々参内し政変を支持して諸藩兵がさらに九門を警備しました。

その中には攘夷を標榜する藩もありましたが、長州に味方しませんでした。

やはり長州藩はやり過ぎていたのです。

 

政変に気が付いた長州藩ですが、御所の厳重な警護に手出しは不可能になり

申し開きも許されませんでした。

こうして長州は堺町御門の警備を解かれた上で、京都追放を命じられ

長州と動きを共にしていた七卿(しちきょう)と共に落ちていくのです。

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

朝廷を牛耳り好き放題をしていた長州藩は、ここで一気に報復を受けます。

直後に池田屋で謀議中の長州藩士が新選組に踏み込まれ、多数が捕縛殺傷された事で

長州では、京都に進軍して天皇に直接申し開きをすると言い出し

兵を出して進撃、御所を守る会津や薩摩の兵と戦闘になります。

 

これが禁門の変ですが、ここでも長州は敗れ、さらに馬関海峡(ばかんかいきょう)で、

外国船に砲撃した報復で4か国連合艦隊の攻撃を受け藩内もボロボロになり

それが長州征伐を招くのです。

 

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