桂小五郎と幾松幕末を彩る世紀の恋の真実

2018年7月10日


 

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桂小五郎

 

長州藩士で幕末三傑のひとりに数えられる桂小五郎(かつらこごろう)木戸孝允(きどたかよし))は京都潜伏中に、

妻となる女性、幾松(いくまつ)と出会いました。

 

そして、幾松にほれ込んだ桂小五郎は幾松を身請けしようとしますがそのときライバルがいました。

そのライバルを蹴落とすため、桂小五郎はとんでもない方法を使います。

そして、幾松は身請けされ、桂小五郎の最も苦難の時代を支えるのです。

 

今回は、桂小五郎と幾松、

のちに妻となる木戸松子の出会いと結婚生活の恋愛エピソードを調べてみました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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料亭の芸奴「幾松」と桂小五郎の出会い

 

桂小五郎は京都で活動しているときに幾松に出会います

幾松は才色兼備の芸妓として人気があり、「幾松」という名も先代の名を継いだものです。

 

桂小五郎は幾松を身請けしようとしますが、

そのときに幾松に入れあげているのは桂小五郎だけではなかったのです。

 

山科(やましな)の豪商が桂小五郎に張り合います。

双方で相当なお金をつぎ込みますが、とうとう桂小五郎は切れたのでしょう。

 

長州藩士で、後に初代総理大臣となる伊藤博文(いとうひろぶみ)に刀を抜いて脅させたのです。

これで、桂小五郎は幾松を身請けしたのです。

 

志士・桂小五郎の妻は命がけ!

新選組

 

長州藩でも過激な攘夷思想をもっていた桂小五郎は、

京都で新撰組をはじめ幕府側の治安組織に狙われまくります。

 

桂小五郎はそのため、乞食、商人、女装など、変装して追手を逃れます。

幾松は、乞食の変装で逃げていた桂小五郎におにぎりなどの差し入れをいれていました。

泥棒

 

新撰組は当然、幾松と桂小五郎の関係を知っていますので、

幾松を連行し、桂小五郎の潜伏先を聞き出そうとします。

幕府の追及も厳しくなってきており、桂小五郎は丹波の国の出石に潜伏先を変えます。

 

そして、幾松への監視は更に厳しいものとなり、

長州藩士らの助けによって対馬藩の屋敷にかくまわれていました。

新選組

 

幾松は会津藩士の取調べをしていた男に襲われそうになり、

三味線を叩きつけて対馬藩邸に逃げてきたという逸話を伊藤博文が残しています。

 

その後、これ以上京都にいるは危険だとして、幾松も下関に潜伏することになります。

ふたりが再び出会うのは明治新政府が幕府を倒してからでした

 

新選組

 

ようやく入籍!幾松に惚れ込んだ木戸孝允(桂小五郎)の溺愛ぶりがすごすぎる!

(画像:木戸松子Wikipedia)

 

桂小五郎と幾松が結婚した時期については確かな史料は残っていませんが、

明治元年に桂小五郎は実家のある萩に幾松をつれていっています。

このあたりで正式に入籍していたとする説が有力です。

 

幾松の身分や桂小五郎が多忙を極めたことで、

正式な入籍が遅れたという説がありますが、実際のところはよく分かっていません。

 

木戸松子(きどまつこ)となった幾松には洋装の明治に入ってからの写真があります。

美人です。時代を超えた凛とした感じの美貌の妻です。

 

これだけの美しい妻ですから木戸孝允と名乗るようになった桂小五郎にとっても自慢の妻で、

ダイヤモンドの指輪を買い与えたり、夫婦で海外旅行に出かける計画も立てていたといいます。

この計画は木戸孝允は旅行に行く前に病死してしまい、実現できませんでしたが。

 

このような木戸孝允の妻への溺愛ぶりは、彼が残した日記に書かれていることです。

木戸孝允は、日記に妻との生活のことかなり書きのこしています。相当に惚れこんでいたのでしょう。

 

木戸孝允の急逝・その後の幾松(木戸松子)は?

 

木戸孝允は西南戦争が起きた年に持病が悪化し亡くなります

酒が好きで過度の飲酒により肝臓障害によって亡くなったのではないかと言われています。

 

木戸孝允は今わの際に「西郷もいいかげんにしないか」と

西南戦争の首魁となった西郷隆盛(さいごうたかもり)を叱責するかのような言葉を残しました。

満43歳での死でした。

 

残された木戸松子は、仏門に入り名前を「翠香院(すいこういん)」とします。

その後は二人が出会った京都に住居を移し、

木戸が生きているときに養子とした忠太郎(ちゅうたろう)を育てつつ、夫の墓前を守る生活を送ったのです

そして、木戸の死後9年、木戸松子も夫の待つ世界へと旅立ちました。享年44歳でした。

   

幕末ライター夜食の独り言

幕末ライター夜食の独り言

 

維新三傑の一人で、最もバランス感覚があったと評されるのが木戸孝允です。

長州出身でありながら薩長中心で作られていく明治政府に苦言を呈していました。

もっと広く人材を登用すべきだということです。

 

先を見通す能力では特に傑出していたといいます。

幕府に追われている京都で出会い、

逃亡、潜伏する木戸孝允(当時、桂小五郎)を支え続け守った幾松もまた女傑でした

 

もし、彼が別の女性を選んでいたら、

また身請けができなかったらどうなっていたかなと考えてしまいます。

 

それだけ、幾松、妻となった木戸松子は木戸孝允にとっても

大きな存在であったのではないでしょうか。

維新三傑のひとり木戸孝允は、女性を見通す目も確かだったのでしょう。

 

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