あなたが小学生や中学生の頃、
毎日のように先生に叱られていた人はいませんでしたか?
授業中だろうが休み時間だろうが
ペラペラペラペラ減らず口を叩きまくり、
先生の指示や校則に対して
「それ意味なくないっすか?だってペラペラペラペラ」
などとまくし立て、とりあえず楯突きまくるアイツです。
そんな困ったちゃんなアイツの言葉に
思わず「確かに…」と頷いた人も少なくないでしょう。
実は孔子の弟子の中にも
困ったちゃんなアイツがいたのです。
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孔子、余計なことを言うなと叱る
孔門十哲の中でも、
特に言語に秀でていた者として宰我の名が挙げられます。
孔門十哲というのは
孔子が実際にその名を挙げて才を称えた10人のことですから、
宰我も言葉の才能を孔子に高く評価されていたということです。
ところが、『論語』では
宰我が孔子に叱責されまくっています。
言葉について称えられている宰我ですが、
まずはその言葉について孔子に叱られているエピソードをご紹介しましょう。
あるとき、魯の哀公が宰我に対して「社」について尋ねました。
ちなみに、「社」というのは土地神の憑代となる樹木のことです。
すると宰我はペラペラと次のように答えました。
「夏の君主は松を社とし、殷人は柏を社とし、周人は栗を社としました。
ちなみに、周が栗を社としたのは、
その社で死刑を行うときに民草を戦慄させるためだったんですよ。」
宰我は「栗(りつ)」と戦慄の「慄」が掛かってるんやで~!とドヤ顔。
ところが、この話をしたことが孔子の耳に入ったらしく、
「やってしまったことは仕方がないし咎めないけれど、
もう変なことを言って君主を刺激してはならんぞ」
と叱られてしまったのでした。(『論語』八佾篇)
孔子、こいつはどうしようもないと呆れる
「口は災いの元」を見事体現して見せてくれる宰我ですが、
黙っていてもやっぱり叱られます。
宰我はある日、
だらだらと真昼間に惰眠を貪っていました。
その様子を見た孔子は
「朽ち木に彫刻はできないし、
糞土で作られた壁には上塗りできない。
宰我に叱っても何の意味もない。」
とあきれ果てます。
しかし、やっぱり宰我への怒りは収まらなかったようで、
「私も昔は人の言葉を聞いて、きっと実行してくれると信じていたものだ。
しかし、今私は人の言葉を聞いて更にその行動まで見届けてから信じることにしている。
あぁ、宰我のおかげでこのように改めたのだよ。」
と痛烈な皮肉を発射。(『論語』公冶長篇)
話せば叱られ、寝ても叱られ、
何で宰我が孔子の弟子でいられたのかがわからなくなってきますね…。
孔子、礼を否定されてキレる
孔子は周を理想的な国家であると崇拝しており、
周が定めた礼をそのまま継承していくべきだと考えていました。
ところが、宰我が周の喪礼について難癖をつけ始めます。
「喪が3年って長すぎますよ。
もし君子が3年も礼を修めるのを中断してしまったら、礼は廃れてしまうでしょうし、
3年も楽を修めなければ、楽だってダメになってしまいます。
(本当はもっと短くていいと思ってるけど)まる1年でやめていいのではないですか?」
これには孔子の眉毛がピクリ。
「お前は自分の親が死んで3年経たないうちに
米を食べて錦を着ても何とも思わないのか。」
孔子に問われ、
「別に何とも思いませんよ。」
キョトンとした顔で即答する宰我。
そうじゃない、そうじゃないんだよ宰我…。
よくわからんといった風な宰我に孔子は次のように諭します。
「君子というものは、
喪に服している間は美味しいものを食べても味がわからず、
音楽を聴いても楽しい気持ちにならず、
家に居てもおちつかないものなのだ。
でも、お前が何とも思わないなら好きにすればいい。」
「君子になれなくてもいいなら勝手にすれば?
君子になれなくてもいいのならね!」
という孔子の含みに気づかなかったのか、
「はいわかりました」といった様子で去っていった宰我。
その背中を見送りながら孔子は嘆きました。
「宰我には仁の心が無いなぁ。
子どもが親から自立するのに3年かかるということから
喪に服す期間も3年と定められているというのに。
宰我だって父母から3年もの間愛を受けて育ったはずだろうに…。」(『論語』陽貨篇)
三国志ライターchopsticksの独り言
孔子の弟子の中でも随一の問題児であった宰我。
その口から発せられる言葉に
孔子もカチンとくることが多かったでしょうが、
宰我の素直な言葉にふと気づかされることも多かったのではないでしょうか。
自分の考えを批判的に見てくれる目として、
宰我は孔子に愛されていたのかもしれません。
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