春秋戦国時代から六朝時代までの文学を網羅する
『文選』を著した南朝梁の昭明太子は「淵明フリーク」として有名です。
彼の陶淵明への愛は、
陶淵明の個人文集である『陶淵明集』まで
自らの手で編纂してしまうほど。
文学を愛した風流太子の心をも掴んだ
陶淵明とは一体どのような人物だったのでしょうか?
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働きたくないでござる!
陶淵明は東晋から南朝宋の時代を生きた人物です。
陶淵明は今の江西省九江市にあたる
潯陽柴桑の下級士族の家に生まれました。
門閥士族が大手を振って歩く世で、
彼は肩身の狭い思いもすることもあったかもしれません。
しかし、そんな彼も江州の祭酒として出仕します。
祭酒とは教育行政の長官のことですから、
陶淵明は相当優秀だったことが窺えますね。
しかし、何が気に入らなかったのか、
すぐにその職を辞してしまいます。
その後はしばらく
悠々自適の酒浸りニートライフを満喫しますが、
そのために生活苦に陥ります。
陶淵明はこの状況を打開するために何度か出仕しましたが、
どうにも働くということに耐えられない性分らしく、
何やかんやと理由をつけて短期間で職を辞しています。
それでも彭沢県の県令となったことがあった陶淵明ですが、
「田んぼに植える米は全部酒米にしよう!」
と言い出して家族全員に全力で必死で止められる乱痴気ぶり(?)を発揮。
結局この職にも小金稼ぎのために就いただけで
根っからやる気はなかったらしく、
よその家に嫁いでいた妹が死んだから
喪に服さなきゃ!とか何とか言って
さっさと辞めてしまったのでした。
田園に閑居してツケで酒を飲みまくる
彭沢の県令を辞めた陶淵明は郷里の田園地帯に帰り、
晴耕雨読の隠遁生活を満喫します。
金は無いけれど酒が大好きな陶淵明は
訪ねてきてくれた人からもらった酒を飲み、
さらにはツケ払いしてまで酒を飲みまくり、
日がな一日ふらふらしているどうしようもないオヤジでした。
このように、ぶっ飛びまくっていた彼ですが、
大変優秀な人物であるということで有名だったために
その後も何度か出仕の要請があったようです。
しかし、それらを全力で拒否。
南朝宋の朝廷の偉い人から呼ばれようとも全て拒否。
奇跡のロイヤルニートっぷりを
世の人々に披露してみせたのでした。
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ダメオヤジだけど…
その生活ぶりからは
ダメオヤジの印象しか見出せない陶淵明ですが、
その詩文は世の人の心に響く傑作ばかりです。
陶淵明が生きた当時は、
技巧にばかりこだわった中身の無い詩が横行していたのですが、
陶淵明の詩はその流れに逆らうかのように、
素朴な表現によって自身の生活や感情を直接的にうたったものが多く、
現代に至るまで多くのファンを生んでいます。
後に、彼の詩風をリスペクトした柳宗元をはじめとする
唐宋八大家と称される文人たちによって
古文復興運動が起こるほど彼の詩文は素晴らしいものだったのです。
また、陶淵明はちょっと不思議な世界に憧れを抱いていたようで、
神話ともいえる『山海経』を愛読し、
これをもとに『続山海経』を著したり、
皆さんもご存知であろう「桃花源記」という
志怪小説的作品を生み出したりしており、
道教を信奉し仙人を目指す人たちからも一目置かれていたようです。
文人としても仙人さながらの隠者としても
陶淵明は世の人に愛され続ける人物なのです。
三国志ライターchopsticksの独り言
働きたくないでござるおじちゃんの陶淵明ですが、
実は彼にはある信念があったために
出仕しなかったのではないかと言われています。
東晋王朝に仕えていた軍人・劉裕がクーデターを起こし、
劉裕が自ら皇帝として即位して南朝宋を立てるという
大事件を目の当たりにした陶淵明は、
自分自身を最期のときまで東晋王朝の臣であると考えていたというのです。
そんな陶淵明の忠臣ぶりを称して高節の隠者と呼ぶ人もいます。
もしかしたら陶淵明は
東晋王朝が滅んだ世を儚んで
わざと変人のふりをしていたのかもしれませんね。
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