『平野国臣の西郷隆盛救出!入水事件の真相とは?』において、西郷隆盛と平野国臣との関係について取り上げましたが、平野国臣は幕末の歴史においてほとんど注目されていません。ここでは、平野国臣について残された歌碑から注目します。
桜島についておさらいしよう!
平野国臣と言えば、「我が胸の・・・」で始まる桜島歌があります。平野の歌について取り上げる前に、鹿児島県の火山で有名な桜島について簡単に紹介します。桜島は、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある火山です。かつては島でしたが、1914年に鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなりました。現在も活発な活動を続けている火山で、鹿児島県のシンボルとなっていて観光地として知られています。
「我が胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」
「我が胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」は平野国臣の歌です。この歌が詠まれたのは1860年10月で、井伊直弼が桜田門外で暗殺された後です。この平野の歌の意味は次の通りです。
私の心にある尊王攘夷への情熱にくらべてみると、
桜島の噴煙はまだまだ薄いと言うことを意味しています。
平野の歌を詠んでいると、尊皇攘夷への熱い思いを、噴煙を上げる桜島と重ねて比較している姿を想像することができます。比較したら自分の熱い思いが桜島の噴煙よりも勝っているという堂々とした作風が感じられます。
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歌碑が平野神社にあるよ!
平野国臣の「我が胸の・・・」で始まる歌の碑は平野神社の境内にあります。平野神社について紹介します。平野神社は福岡市中央区今川にあります。平野国臣はこの地に生まれたと言われ、尊皇の志士として祀られています。平野神社の最寄り駅は地下鉄唐人町駅です。近くの西公園には平野国臣の銅像もあります。
牢内で書いたこより文字って何?
平野国臣は福岡藩士で尊王攘夷派の志士でした。大和国の天誅組の変と呼応して、但馬国生野で生野の変を起こしますが、鎮圧されました。生野の変の後に逮捕されますが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害されました。平野国臣は薩摩藩士と交流があり、飛脚を装って薩摩に入ることに成功したことがあります。
薩摩に入ると大久保一蔵(利通)に会い、討幕に向けて説得したこともあります。平野は薩摩藩や長州藩の藩士らと親交がありましたが、福岡藩に逮捕され、投獄されました。政治犯には筆記用具は与えられないため、筆の代わりに落とし紙でつくった「こより」を飯粒で紙に貼りつける「こより文字」を作りました。牢内で総文字数3万字に上る和歌や論考を書き綴ったと言われています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
平野国臣と言えば、尊王攘夷派で生野の乱を起こした人物として評価されているだけでした。『平野国臣の西郷隆盛救出!入水事件の真相とは?』では、平野国臣と西郷隆盛との関係について、西郷が入水自殺を図ったのを目撃し、救出した人物であることを取り上げました。
西郷らを救出後、平野は尚古コスプレで笛を吹き鳴らし、尊皇攘夷をアピールして薩摩藩を去ったことも取り上げました。
今回は平野国臣が残した歌について取り上げました。平野国臣の「我が胸の・・・」で始まる歌は歌碑として残されています。歌碑が平野生誕の地である福岡市の平野神社にあることを紹介しました。桜島歌は桜島の噴煙と比べると平野の尊王攘夷に対する思いが熱いことを詠んだことを取り上げました。平野国臣は政治犯として福岡藩に逮捕されますが、逮捕されると筆を与えられず、文字を書くことができません。
普通なら書くことを諦めるのですが、平野は執念でこよりを飯粒で紙に貼り付けるこより文字を作り、3万字にわたる和歌や論考を執筆しました。平野のこのような執念はこより文字として語り継がれています。今後、平野国臣だけでなく、幕末の人物で牢屋の中で編み出した人物やその文学作品に注目したいと思います。
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