「三国志」の小説やゲームなど様々なメディアで見かける「あざな」。
例えば、「劉備、字は玄徳」「関羽、字は雲長」のようなものです。人物に対する呼び方も「劉玄徳」や「玄徳」など「字」の使用法は様々です。
今回の記事ではその「字(あざな)」とは何なのか探ってみたいと思います。
「字(あざな)」とは?
昔の中国において実名以外に付けた名前の事を「字(あざな)」と言います。これは成人のみに使われ、儒教の「礼」に関する論議をまとめた本「礼記」に、「男子は20歳で冠を着け字をもった」「女子は15歳でかんざしを着け字をもった」と書かれています。
ちなみに少なくとも三国志の時代に字を持っていたのは身分が高い人だけで、庶民は字を持っていませんでした。
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三国志時代における名前の構成
三国志の時代などの昔の中国の名前は
姓(氏)
諱(名、いみな)
字(あざな)
の3つで構成されています。
例えば「劉備玄徳」ですと劉(姓)+備(諱)+玄徳(字)となります。
姓、諱、字ともに文字数に制限はなく、有名な人物ですと諸葛(姓)+亮(諱)+孔明(字)は姓が2文字です。
殆どの人の「字」は「玄徳」「孔明」など2文字ですが、前漢の初代皇帝「劉邦」の字は「季」と1文字です。
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呼び方
あざなを持つ人は通常はあざなで呼ばれていました。親しい間であればあざなで呼び合っていたようです。また、当時は「諱」で呼びかけることは極めて失礼とされていました。その為、諱で相手を呼ぶことが許されるのは親や主君など自分より目上の人に限られていました。
これは「本名はその人の霊的な人格と深く結びついており、その名を口にすると相手を支配できる」と考えられていたため、と言われています。
これらの事から、位の高く、諱で呼びかけることが可能な人が位の低い人を敢えてあざなで呼びかけることは、相手に大きな敬意を払っていることになりました。
例えば劉備は小説「三国志演義」などで諸葛亮の事を「孔明」とよく呼んでいますが、これは劉備が孔明に高く敬意を払っていることを示しています。また、相手が役職についている場合は「諸葛丞相」「関将軍」など姓+役職で呼ぶことが最優先されていました。
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名乗り方
自己紹介をする場合は姓+字で名乗っていました。
例えば
「私は劉玄徳です。」
「俺は張翼徳だ。」みたいな感じです。
上司や目上の人に対しては姓+諱を名乗り、あざなを自称することはありませんでした。
「劉備です。」
「張飛です。」
みたいな感じです。
ちなみに作品ごとにあざなが異なる人物もいて先述の「張飛」は小説「三国志演義」ではあざなは
「翼徳」
ですが、正史「三国志」では
「益徳」
となっています。
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字(あざな)の付け方
あざなの付け方には決まったルールは決められていませんが、いくつかの傾向が見られます。なかでも多いのは生まれた順番によってつけられたあざなです。
これによってあざなをみるとその人物がどのような生まれなのかが大体わかりますね。
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日本における字(あざな)
あざなの文化は漢字圏で見られるもので、日本でも例外ではありません。日本においても諱は「忌み名」と言われ、特に高い身分においては諱を呼ぶことは避けられてきました。例えば「徳川家康」は「次郎三郎」というあざな(通称)を使用していました。
また、官職名でよぶことも多かったようです。
例:
浅野長矩(浅野内匠頭)
大岡忠相(大岡越前守)
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