社会で頑張っている皆さん、お疲れ様です。特に家族を養うために社会で戦っている皆さんは本当にお疲れだと思います。
そんな皆さんの疲れた心を癒してくれるのが『三国志』ですよね。数多くの個性豊かな武将たちが戦場で華々しく活躍する姿を思い浮かべると一時だけでも日頃の鬱憤を忘れられるものです。
しかし、やはり『三国志』に描かれている時代にも皆さんのように家族のために一生懸命生きている名も無い人たちはたくさんいました。平社員ならぬ平兵士として戦場を駆け回っていた名もなき人々。彼らは戦争に参加することで給料をもらい皆さんのように大切な家族を養っていました。
しかし、下世話ながら気になるのはその給料。彼らは一体どのくらい給料をもらっていたのでしょうか?
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お給料はお金ではなく現物支給
生きるために必要な営みといえば「食べる」こと!
人々が兵士に志願するのも「食べる」ためです。
そのため、兵士たちの給料は食料が現物支給されていました。食料は麦などの穀物が主だったようですね。勤務した日にだけ退勤時に「お疲れさん」と食料が配られていたらしく、有給休暇なんて制度は当然ありませんでした。
そのため病気や怪我で休むということは家族を養わなければならない兵士には気軽にできませんでした。
もらえるのは1日分の穀物だけ?
働きさえすれば食料をもらうことができた平兵士たちですが、もらえる食料はそれほど多くなかったようです。張鵬一『晋令輯存』によると、西晋時代に西域警護に当たっていた兵士たちの給料は麦6升。
現代の基準では、1升=約1.8Lと定義されていますが、その当時の1升=0.3Lほどだったため、実質的には1升(1.8L)しか麦をもらえなかったようですね。1升=10合なので、大家族や食べ盛りの男子がいる家庭で愛用されている大きな炊飯器いっぱいに炊ける量を想像すれば丁度いいかもしれません。
しかし、支給される穀物にはおそらくもみ殻も付きっぱなしだったため、その分実際に食べられる量は少なくなっていたと考えられます。
そうすると、夫婦2人でつつましく暮らしているような兵士にとっては十分な量だったかもしれませんが、子だくさんで家族が多い兵士たちにとっては1日もつかもたないかという分量。仕事が休みの日は家族にご飯を食べさせることができないと嘆く兵士もいたことでしょう。
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食料の不足分は略奪で補う!
家族にひもじい思いをさせてばかりだった平兵士もただただひもじさに耐え忍んでいたわけではありません。戦に出かけた際にはいつも略奪の機会を窺っていました。通りがかる町や村で家々を襲って食料を奪い、家族のために持ち帰っていたのです。
もちろん、このような行為は褒められたことではありませんし、軍規で取り締まる将軍もたくさんいました。しかし、多くの平兵士たちは自分の家族を養うために必死で略奪行為に励んでいたようです。
一家の大黒柱の平兵士が死んだら家族は…?
様々な保険や保障が充実している現代では一家の大黒柱が亡くなってしまっても遺された家族たちの生活は保障されますよね。しかし、三国時代にはそんなものがあるはずもなく、大黒柱を失った家族は子どもも大人も必死で働いて食い扶持を稼いでいたようです。
それでも、やはり大黒柱がいたときのような暮らしはできなくなってしまうので、幼い子どもが栄養失調で死んでしまうといった第二の悲劇が起こることもあったでしょう。
ただ、例外的にその死後に家族の生活が保障されることもあったようです。その代表的な例が、かの有名な合肥の戦いで活躍した決死隊。
張遼が「死後に家族の生活を保障する」と叫んだことによって集まった800人あまりの兵たちの家族は大黒柱を失っても張遼の保護を受けて何不自由ない生活をすることができたようですね。
三国志ライターchopsticksの独り言
今も昔も変わらず戦うお父さんは大変な苦労をしていたようですね。誰かにその名を知られることもなく死んでいった平兵士たちですが、彼らがいてくれたからこそ天下はめぐり、命のバトンはつながれていったのでしょう。
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