北条早雲
京都一帯を焼け野原にしたとされる応仁の乱。もとは、室町幕府の管領として、政務を行う一族であった畠山氏のお家騒動から始まった応仁の乱は、次第に数多くの武将たちを巻き込む大きな戦となり、結局戦は約11年間にも渡って続きました。戦国時代突入のきっかけのひとつにもなった応仁の乱ですが、畠山氏のお家騒動や、将軍の跡取り問題など、ある意味では私利私欲に満ち溢れたこの戦を、北条早雲はどのような目で見つめていたのでしょうか。
応仁の乱が勃発した1467年、早雲はまだ35歳という若さでした。(早雲の寿命が63歳であったという説から考えると、このときはまだ11歳であったということになります。)
早雲から見た応仁の乱
応仁の乱が起こる数年前である1464年頃、早雲は足利義視に仕えるようになりました。義視は室町幕府8代将軍である足利義政の弟であり、応仁の乱には密接に関わることとなる人物でした。歴史に「もしも」はないといいますが、もし8代将軍の義政がスムーズに家督を弟である義視に譲っていたら、早雲はその後は室町幕府の中枢で活躍した武将として名を残していたかもしれません。実際、はじめは義政は弟の義視に将軍を継がせると約束していたのです。
しかし、将軍の義政と妻である日野富子のあいだに息子が生まれると、日野富子は我が子を次の将軍に、と主張するようになります。畠山氏のお家騒動だけでなく、将軍家の跡取り問題も絡んだ応仁の乱を、早雲は当事者に仕える立場から見ていくこととなったのです。
早雲は、応仁の乱が終結する直前の1476年に駿河に下っています。これは、今川氏のお家騒動を丸く収めるためでした。このお家騒動は、早雲が言葉巧みになんとか解決していますが、この時代、有力な家柄のお家騒動がどうしてこんなにも多かったのでしょう?時代が荒れていたからなのでしょうか?
それにしても、どこへ行っても誰かのお家騒動に巻き込まれていた早雲は、現代から見ても気の毒に感じます。戦国武将というと、ひたすらに武力のみでのし上がっていったというイメージが強いですが、戦国武将の先駆けとなった早雲は、武力だけでなく言葉巧みに智力を使いながら、その名が知れ渡るようになっていった人物なのです。
一度は駿河に下り、再び幕府に戻ったものの…
応仁の乱が終結する直前である1476年に駿河へ下った早雲は、今川家の家督争いが丸く収まると、再び室町幕府へと戻り、9代将軍である足利義尚に仕えました。しかし、応仁の乱が終わって10年近く経った1487年、早雲は再び駿河に下ることとなります。
なぜなら、一度は丸く収めたはずの今川氏のお家騒動が再び起こったのです。このときも早雲は大活躍し、今度は武力行使に出てこの問題を解決させたのでした。そして、このとき早雲は、手柄を立てたことによって、興国寺城の所領を与えられたのでした。
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早雲が応仁の乱から得たもの
応仁の乱勃発のきっかけとなった将軍家である足利一族の家督争いを内側から見つめ、畠山氏のお家騒動を当事者に近い立場から眺め、今川氏の跡継ぎ騒動では2回も間に入った早雲は、いったい何を思っていたのでしょう。
早雲の口から答えを聞くことは不可能であるため、正解は分かりませんが、その後早雲が相模一帯の平定に乗り出し、各国を治めるために行った政治の内容から、その答えを推測することができます。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
早雲はまずは民衆を重税から解放し、彼らの心を掴みました。「身分の低い者がどうなろうと関係ない、自分たちの名誉や権力が大切だ」という貴族体質の武将であっては、これからの時代は生き抜いていくことができない、ということを、早雲は応仁の乱や数々のお家騒動から感じ取っていったのかもしれません。
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