西郷隆盛の政治思想はどんなもの?

2018年12月12日


 

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西郷隆盛

 

西郷隆盛(さいごうたかもり)と言えば、歴史ファンの中でもっとも人気のある人物のうちの1人です。

 

今回は、西郷隆盛を人柄と学者としての視点から取り上げます。

最初に西郷の座右の銘である「敬天愛人」を基に人柄について取り上げます。

次に、西郷が薩摩藩士だった頃に勉強した学問を紹介します。

学問として、陽明学・武士道を取り上げます。

西郷や薩摩藩主だった島津斉彬(しまづなりあきら)が目指した政治体制を紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」

 

西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」です

敬天愛人とは天を敬い、人を愛することを意味します。

 

2018年の大河ドラマ『西郷どん』で、西郷が身分に関係なく人々への慈愛を持って接している姿が描かれています。

義を重んじる行動は西郷隆盛の武士道につながっていると言えます。

西郷は清貧に甘んじていました。下級藩士出身で貧しかったことや2度の遠島の処分を受けて質素な生活を強いられました。

この質素な生活をしていたことから、困った人を見たら自らを犠牲にして助けていた姿も西郷どんで見ることができます。

 
 

 



西郷隆盛の学んだ陽明学

西郷隆盛の学んだ陽明学

 

ここでは、西郷隆盛が取り組んだ学問について紹介します。

 

薩摩藩にいた頃、陽明学を学びました。

陽明学とは明の時代に王陽明(おうようめい)が広めた儒学のことを言います。

江戸時代に中江藤樹(なかえとうじゅ)が日本に持ち込みました。

 

江戸時代は幕府が朱子学を奨励したことにより陽明学が台頭することはありませんでしたが、幕末になると、西郷隆盛だけでなく

大塩平八郎(おおしおへいはちろう)佐久間象山(さくましょうざん)など著名な武士にも広まります。

 

陽明学の考えは知行合一で、知ることと行うことはともに心から発する作用であるという考えです

言い換えると、知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成という意味です。

大河ドラマ『西郷どん』では、困っている人を助ける姿が知行合一を実践していることを表しているのかもしれません。

 

阿部正弘

 

島津斉彬らが目指した共和政治

島津斉彬らが目指した共和政治

 

西郷隆盛は島津斉彬に取り立てられると、13代徳川家定(とくがわいえさだ)の後継として14代将軍を一橋(徳川)慶喜(ひとつばし(とくがわ)よしのぶ)にするための運動を始めました。

結果、井伊直弼(いいなおすけ)が推した徳川家茂(とくがわいえもち)(当時、慶福(よしとみ))が14代将軍になりました。

 

14代将軍が徳川慶喜になったらどのような政治体制になったのでしょうか。

これまでの幕藩体制では譜代大名のみが政治に関わっていましたが、譜代大名だけでなく幕末に活躍した

幕末の四賢侯(松平慶永(まつだいらよしなが)山内豊信(やまうちとよしげ)、島津斉彬、伊達宗城(だてむねなり))・外様大名・朝廷を政治に参加させます。

 

日本を一つにまとめて、議会を作り、日本の代表者は選挙で決めるという政治体制です。

島津斉彬ら幕末の四賢侯は一橋慶喜を日本国の当主とした共和政治を目指していました

 

 

西郷隆盛は共和政治をどこで学んだのか

 

西郷隆盛は島津斉彬のコネで福井藩士の橋本左内(はしもとさない)横井小楠(よこいしょうなん)と交流します。

西郷隆盛は共和政治を福井藩士の儒学者・横井小楠から学んだと考えられています。

 

大河ドラマ『西郷どん』で横井小楠が登場していませんが、横井小楠が福井藩にいた頃、福井藩が交易で栄えていたことが知られていました。

坂本龍馬(さかもとりょうま)は横井小楠の政治を高く評価し、横井の教えを受けていたと言われています。

   

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は西郷隆盛の政治思想について取り上げました。

最初に、横井小楠について取り上げます。

横井小楠は明治新政府の参与として務めましたが、1869年1月5日の午後に京都御所近くで暗殺されました。

 

西郷隆盛は明治政府の参与として務めます。

明治政府では岩倉(いわくら)使節団に帯同せず、江藤新平(えとうしんぺい)らと国内に留まります。

国内では廃刀令によって士族(武士)の特権が奪われました。

士族の不満が高まり、朝鮮半島を武力で開国させる征韓論が高まります。

 

岩倉使節団が帰国すると、西郷らは征韓論を主張しますが、欧米から帰国した大久保利通(おおくぼとしみち)らは政治体制が脆弱すぎるとして反対します。

結果、征韓論は否決され、西郷ら征韓論派は明治政府を去ることになりました。

西郷隆盛は倒幕に参加した武士たちに恩賞をほとんど与えずに特権を奪った明治政府を批判します。

板垣退助(いたがきたいすけ)は言論で明治政府を批判しますが、西郷隆盛は不平士族に担ぎ出され、西南戦争で明治政府に抵抗しました。

 

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