2019年の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では、金栗四三と田畑政治の2人が主役で、1912年のストックホルムオリンピックから1964年の東京オリンピックまでの歴史を描くドラマです。
今回は2人の主役で、日本のマラソンの父といわれる金栗四三について取り上げます。
日本のマラソンの父・金栗四三とは?
金栗四三は1891年、熊本県玉名市に生まれました。日本で最初にオリンピックに参加したマラソン選手で、高地トレーニングなど当時の日本では最新のトレーニングを導入するなど日本のマラソン界の発展に貢献しました。金栗四三は日本マラソンの父といわれています。
金栗四三は1912年のストックホルムオリンピックに参加しました。マラソン選手として参加しましたが、レース途中で日射病が原因で意識を失い倒れました。金栗はレースを諦めて帰国することになりましたが、オリンピックの運営に棄権がうまく伝えられなかったため、「競技中に失踪し行方不明」として扱われました。
この後のベルリン・オリンピックでメダル獲得が期待されましたが、第一次世界大戦により開催中止となり、1920年のアントワープオリンピック以降のオリンピックでメダルが取ることができませんでした。
メダルに恵まれなかった事には、色々な理由があると思いますが、大正五年(1916年)のベルリンオリンピックが戦争で中止になったのが痛いですね。
この年、金栗は25歳でオリンピック選手としても肉体のピークを迎えていたと考えられるからです。
その次のアントワープでは、金栗は29歳で16位止まり、その次のパリでは、33歳と陸上競技の選手としての全盛期は過ぎていました。
もし、1916年のベルリンオリンピックが開催されていたら、金栗はマラソン選手として、日本に初めてのメダルをもたらした選手に
なっていたかも知れません。
金栗は、1967年にストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されました。式典において、金栗は54年8か月6日5時間32分20秒3という記録でゴールしました。このとき、第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了しますというアナウンスがされ、このアナウンスは有名になりました。
この金栗の記録はオリンピック史上最も遅い記録で、今後も破られることはないだろうといわれています。また、金栗はゴール後に「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしました。このコメントは金栗四三の名言として知られています。
金栗四三が考案した箱根駅伝
金栗四三は正月の風物詩となっている箱根駅伝を考案した人物で有名です。箱根駅伝について取り上げる前に駅伝ができた経緯について取り上げます。金栗は1917年の駅伝の始まりといわれている東海道駅伝徒歩競走で関東組のアンカーとして出走しました。この駅伝は関西組と関東組に分かれ、約508キロを23区間に分けて走ります。
東海道駅伝徒歩競走は1917年の1回限りでしたが、金栗は日本初のオリンピック選手第1号としての経験を生かして、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」を発案します。
箱根駅伝は東海道の宿場を参考にしたと考えられます。1日目、走者が襷を鶴見(川崎宿)・戸塚(戸塚宿)・平塚(平塚宿)・小田原(小田原宿)で引き継ぎ、ゴールである箱根宿を目指します。2日目、箱根宿をスタートして東京都の大手町を目指して襷を引き継ぎます。
箱根駅伝に出場した選手の中にはマラソンのオリンピック代表選手がいます。金栗四三の狙いが当たったのかもしれません。
東京五輪ライターオフィス樋口の独り言
今回は2019年の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』の主役の1人である金栗四三について取り上げました。ここでは、金栗四三に関する雑学について取り上げます。
大阪の道頓堀でよく見るグリコのネオンサインがあります。このマラソンランナーは金栗四三がモデルになったといわれています。金栗以外では、カタロン・谷三三五の2選手がモデルになったといわれています。日本人ではなくエチオピアのカタロン選手が有名になりましたが、カタロン選手が選ばれた経緯については分かりませんでした。
今後、大河ドラマいだてんがきっかけでグリコの看板に関する新発見があるかもしれません。これからの研究に期待したいと思います。
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