明治政府は殖産興業と富国強兵を目指し、欧米諸国に対抗するための政治改革を行います。今回は富国強兵を目指した徴兵制度について取り上げます。徴兵制度の導入に至った経緯と反対一揆について取り上げます。
徴兵制度とは?
日本の徴兵制度は大村益次郎がフランス式軍制を採用したことで始まりました。日本では近代軍政の創始者として知られています。大村益次郎は暗殺されましたが、大村の徴兵制度は山県有朋によって引き継がれました。ここでは徴兵制度導入に至るまでの経緯について取り上げます。
1873年、徴兵令が出されました。徴兵告諭と全国徴兵の詔に基づき、国民皆兵の方針が決まりました。徴兵の対象は満20歳以上の男性で、兵籍に編入し、兵役につかせました。
徴兵令が出された当初、兵役免除規定が多かったため実際に兵役についた人が少なかったと言われています。主な兵役免除規定では、最初に、官吏・陸海軍学生・官立専門学校以上の学生・洋行修行中の者があります。次に、戸主とその相続者、それから代人料270円以上の納税者などが挙げられます。意外な兵役免除では、住民票が北海道にあることも挙げられます。兵役免除規定が多かったため、兵士を集めることが難しくなっていました。そのため、明治政府は1883年より免除規定を制限しました。
北海道や沖縄で徴兵制が遅れたのは何故?
徴兵令の施行には地域によってタイムラグがありました。本土は1873年ですが、北海道・小笠原諸島は1887年、沖縄県は1898年宮古・八重山のような先島では1902年まで徴兵はありませんでした。徴兵令の施行が遅れていた理由は、それらの地域の日本化が遅れていて兵士として徴用するのは時期尚早という政府の考えがあったようです。それを利用して、本籍地を北海道や沖縄に移して兵役を逃れようとする鈴木梅太郎や夏目漱石のような人もいました。
激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
徴兵制度への反対運動(1)-武士(士族)の抵抗-
江戸時代まで戦が起こると武士が戦っていました。豊臣秀吉が兵農分離令を出すまで、百姓がアルバイトで戦いに出ていましたが、秀吉の兵農分離と江戸幕府に士農工商という身分制度が確立したことにより、武士は戦いのプロ集団となっていました。
わざわざ戦いのためのプロ集団である武士がいるのだから、武士の特権を奪ってまで国民皆兵の必要がないと考える人がいるかもしれません。徴兵制度導入時、明治政府内でも武士だけで構成された軍隊で良いという意見と国民皆兵を求める意見で割れていたと言われています。結果、明治政府は国民皆兵を決めました。背景として、欧米で使用されている兵器の質が向上し、戦死者が多数出たため志願兵だけでは兵士が足りなくなる可能性があったからだと考えられます。当時、明治政府は日本における武士の数では欧米諸国と戦えないと考えたのかもしれません。
徴兵制度への反対運動(2)-農民らの抵抗-
1873年に徴兵令が出されました。1873年から74年にかけて、農民が徴兵令に反対して政府に抵抗する動きが見られました。この政府に抵抗する運動を徴兵反対一揆と言います。また、徴兵告諭において「血税」という言葉があったことから、生き血を取られると勘違いした農民が一揆を起こしたことから、血税一揆という言い方もあります。農民が反対した理由として、農業の担い手が兵役で取られることや生業が奪われるということが挙げられます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は徴兵制度の導入と反対一揆について取り上げました。徴兵令は1873年に出されましたが、1945年に日本が第二次世界大戦で降伏し、ポツダム命令によって同年に廃止されました。現在、徴兵制度を導入している国は国連加盟国198カ国の中で約60カ国と少数になっていると言われています。これらの国の中にはイスラエルや北朝鮮などで女性も兵役の対象としている国もあります。
一方で、徴兵制度を導入していない国や徴兵制度をやめた国が国連加盟国198カ国の中で約100カ国あります。今後、徴兵制度を取り入れている国の中で、見直す国があるかもしれません。徴兵制度は費用がかかることや戦争が高度プロフェッショナル化することから疑問視されていると言われています。これから徴兵制度を導入している国の動向に注目したいと思います。
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