今回は「るろうに剣心」のモデルになった河上彦斎について取り上げます。この記事では、前半では人斬り四天王といわれた河上彦斎について取り上げます。後半ではるろうに剣心の河上彦斎について取り上げます。
河上彦斎とは?
河上彦斎は熊本藩に生まれました。下級藩士小森貞助の次男として生まれましたが、河上源兵衛の養子となり、このときに彦斎と名前を変えました。彦斎の身長は150cmと小柄で色白でした。一見すると女性と間違えてしまうような容姿だったといわれています。
彦斎は宮部鼎蔵から兵法を学んだことがきっかけで、尊王攘夷派になりました。彦斎は尊王攘夷派の中でも特に排外主義的だったといわれています。幕末にかけて尊王攘夷派として活動します。
1864年6月の池田屋事件で新選組に討たれた宮部鼎蔵の仇を討つために、彦際は京に向かいました。彦斎は宮部の仇を討つために京に向かいましたが、公武合体派で開国論者の佐久間象山を衝動的に斬りました。1864年の禁門の変で、彦際は長州側で参加しました。以降、幕府による長州征討の際も長州藩につき、幕府と戦いました。1867年、彦斎は尊王攘夷派でしたが、熊本藩は佐幕派で公武合体派だったため投獄されました。1868年、明治新政府の参与となった細川護久の補佐をするために上京しましたが、排外的な尊皇攘夷は相変わらず続けていました。
明治新政府では、彦斎は開国政策をとることに反発したために役職に就くことはできませんでした。大村益次郎と広沢真臣が暗殺された事件で、彦斎は疑いをかけられ、逮捕されました。逮捕後、彦斎は斬首されました。
るろうに剣心の河上彦斎
るろうに剣心において、幕末に人斬り抜刀斎として恐れられた緋村剣心が主役となっています。緋村剣心は痩せ型で背が低く、左頬には十字傷があります。緋村は長州藩士時代に伝説の人斬りといわれましたが、緋村は人斬りを良しとせず、人を殺さないことを良しとする考えを持って、全国を旅していました。
幕末という激動の時代は様々な場所で殺人事件が頻発していますが、そのような時代を生き抜いた宿敵との戦いを通して、緋村は明治維新という新しい時代における生き方を模索します。なお、るろうに剣心における緋村剣心は、長州藩士で人斬り四天王といわれた河上彦斎がモデルとなっています。
るろうに剣心のあらすじは東京編・京都編・人誅編で構成されています。東京編では、主に緋村剣心と薫・弥彦・左之助ら仲間との出会いがあります。京都編では、東京から京都に物語の舞台が移ります。武力で政府を倒そうとする勢力を阻止する物語です。人誅編では、緋村剣心が人斬り抜刀斎と呼ばれていた幕末に、妻の雪代巴が殺されました。雪代巴の妹である雪代縁と剣心への復讐を目的に集まった六人の同志たちとの戦いです。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は河上彦斎と河上彦斎がモデルになったるろうに剣心の緋村剣心について取り上げました。河上彦斎は岡田以蔵とともに人斬り四天王の1人といわれていますが、実際に佐久間象山を斬っただけで、以降人斬りとして有名になるような事件を起こしていません。
ここでは、河上彦斎の愛刀と写真について取り上げます。愛刀は肥後国同田貫宗廣で、脇差は水心子正秀です。同田貫は肥後国の刀鍛冶集団が作っていて、彦斎は肥後国生まれであることから縁を感じます。河上彦斎の写真が残されていると伝えられていますが、偽物か別人の可能性が高いと言われています。理由として、写真を撮る時間がなかったことや明治初期に斬首されていることが挙げられます。写真の真相について研究で何か発見されるかどうか注目したいと思います。
今後、幕末の人斬り四天王で河上彦斎・岡田以蔵を取り上げてきましたが、薩摩藩の田中新兵衛と中村半次郎については取り上げていませんでした。今後、薩摩藩の人斬り四天王にも注目したいと思います。
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