村田新八とはどんな人?「西郷どん」でアコーディオンを弾いた薩摩藩士

2019年2月26日


 

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村田新八

 

今回は村田新八(むらた しんぱち)について取り上げます。村田新八といえば、2018年の大河ドラマ『西郷どん』では、アコーディオンを弾きながら歌っている姿がありました。アコーディオンの人という印象を受けるかもしれませんが、この記事では村田新八について薩摩藩士時代と明治時代に分けて取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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薩摩藩士時代の村田新八

 

1836年、村田新八は薩摩国の鹿児島城下に生まれました。高橋八郎の子として生まれましたが、村田十蔵の養子となり、以降通称として新八と名乗りました。

 

村田は年少のときから西郷隆盛(さいごうたかもり)に師事しました。島津久光(しまづ ひさみつ
)
が上京する際、村田は西郷隆盛とともに京の情勢を探るため久光よりも先に入っていました。

 

村田と西郷は久光から寺田屋事件を煽ったという嫌疑をかけられ、薩摩に呼び戻されました。寺田屋騒動で有馬新七(ありま しんしち
)
らは殺され、西郷隆盛は沖永良部島に、村田新八は喜界島にそれぞれ遠島になりました。村田の喜界島での生活は日記として残されています。

村田が復帰すると、戊辰戦争に加わります。幕臣の山岡鉄舟の会談に参加したり、会津戦争の鶴ヶ城での籠城戦に参加したりするなど活躍をしました。

 

 

 

明治時代の村田新八―岩倉使節団から下野して西南戦争に参加するまで―

岩倉具視

 

村田新八は明治政府で砲兵隊長を務めました。1871年、条約改正のために岩倉具視(いわくら ともみ
)
を団長とする岩倉使節団に加わり、欧米の視察に出かけました。

 

1873年、明治六年の政変で西郷隆盛ら征韓論者が下野しました。1874年に村田新八は西郷隆盛らが下野したことを聞くと、欧米視察を取り止めて薩摩に帰国しました。薩摩に帰国後、私学校を開設し、砲術の指導をしました。

 

1877年、西郷隆盛の率いる軍が熊本鎮台を包囲したことによって、西南戦争が勃発しました。政府軍と西郷隆盛の軍が膠着状態にありましたが、西郷隆盛の軍は政府軍に押し出されて薩摩に南下しました。

 

村田新八は西郷隆盛の自害を見届けた後、自らも自害しました。42歳の生涯でした。この戦いで、長男は田原坂の戦いで戦死、次男は鹿児島に戻る途中で負傷しました。

 

 

村田新八とアコーディオン

 

 

岩倉使節団の海外視察に加わって、ヨーロッパを視察したとき、オペラを観劇しました。オペラで聞いたアコーディオンの音色が気に入り、アメリカでアコーディオンを購入しました。熱心に練習したので数多くの曲を弾くことができたようです。

 

『西郷どん』でアコーディオンを演奏したとき、背広を着ていました。西南戦争で戦闘中にシルクハットにフロックコートを羽織って、日本刀を振りかざして戦いました。戦闘が終わるとアコーディオンでフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を弾いたといわれています。

 

ただ、村田新八が弾いたアコーディオンは残されていません。城山で夜にアコーディオンを弾きました。アコーディオンの演奏が終わると、アコーディオンを火の中にくべて焼いたと伝えられています。

   

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は村田新八の生涯について取り上げました。村田新八の生涯を年表で表すと、江戸時代の寺田屋騒動や戊辰戦争の活躍、明治時代の岩倉使節団への参加と西南戦争で、大きく2つの時代に分けて取り上げました。

 

最後に、岩倉使節団に村田新八とともに参加していた大久保利通は、村田のことをどのように評価したのでしょうか。大久保利通(おおくぼ としみち
)
は村田新八を高く評価していたと考えられます。西郷と大久保が征韓論で論争になったとき、万が一西郷ら征韓論者が敗れて下野しても村田は下野しないと考えていました。大久保の予想に反して村田が下野したことを聞くと、呆然としていたといわれています。

 

大久保利通以外では、勝海舟(かつかいしゅう)も大久保利通に継ぐ人物で戦死したことは惜しいというコメントを残しています。

 

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