三国志の中で最も知名度の高い人物・諸葛亮。
彼は劉備が亡くなった後、宰相として蜀の軍事・政治を一手に担い、軍事面では蜀軍を率いて魏軍と幾度も戦いを繰り広げています。諸葛亮は魏軍と戦をする際、何を重んじていたのか紹介していきましょう。
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陣形を重んじて戦いに臨む諸葛亮
諸葛亮は「正史三国志」ですとあまり戦が得意じゃない人物として描かれています。ですが三国志演義の諸葛亮は戦の才能を存分に発揮し、戦に大勝利したシーンが描かれ、三国志演義を読んでいる読者を楽しませています。
では三国志演義の諸葛亮は戦に望む際、何に重点をおいていたのでしょうか。それは陣形です。諸葛亮は戦いに出陣する際、八陣図と呼ばれる陣形を用いて敵軍と戦っていました。八陣図とは32小隊からなる方陣を主将の周りに形成。
その後戦の状況や敵軍の攻撃状況に応じて、布陣する陣形を変化させるものです。三国志演義では「八門金鎖の陣」や「石陣八陣」、「八卦の陣」として登場しています。諸葛亮はこれら陣形を用いて戦いに臨んでいましたが、他にも戦場で大事にしている事がありました。
軍令を重んじて戦いに挑む
諸葛亮は軍に色々な禁止事項を作り、兵士達へ厳命していました。例えば戦闘が発生した際の号令方法として「軍勢が進軍する際、鼓の音や旗をしっかりと見て行動し、点呼や合図にしっかりと応えなさい。」
「水戦を行う際、白旗や赤旗が上がったら全軍船を前進させるべし。鉦が鳴って青い旗が上がったら、船を停止させるべし。
これらの軍令を破ったらすぐに斬るべし。」
「隊列を乱したり、逃げ腰になって戦線離脱したり、勝手に行動するような兵士達を発見したら、すぐに斬るべし」
このように諸葛亮はかなり厳しい命令を作って、兵士達へ布告し徹底させていました。法律を作って遵守させる諸葛亮らしい部分を軍に持ち込んだと言えるでしょう。
戦法を大切にする
諸葛亮は陣形・軍令の他に戦法をしっかりと組み立てて戦へ出陣していました。諸葛亮はどのような戦法を組み立てていたのか。諸葛亮は丘陵に布陣した場合、「高い位置に敵軍が布陣している場合、自軍は低い位置に布陣して、高い位置の敵兵を攻撃してはならない。」としています。
また諸葛亮は水上戦で「下流に布陣したら、上流に居る敵軍を攻撃してはならない」と注意を払う戦法を創造。更に諸葛亮は「草原で戦う場合は深く生い茂った場所に布陣すると火計を受けて大損害を受ける可能性があるから、布陣するべくではない」と戒めています。
このほかにも道で布陣する場合や平地の布陣方法など多岐にわたって戦法をしっかりと組み立て、戦いを有利に進める方法を研究していました。
三国志ライター黒田レンの独り言
諸葛亮は陣形、軍令、戦法の他にも命令を伝達する方法や軍同士の連絡方法などを細かく取り決める事で、連絡ミスや伝達ミスなどを防いでいました。これら諸葛亮が開発した陣形、軍令、戦法などは蜀が滅亡した後、晋王朝に仕えていた陳勰が研究をおこない、戦で用いていたそうです。
また諸葛亮が作り出した陣形、軍令、戦法などが記載されている「便宜十六策」と呼ばれる本が残っています。この本は宋の時代に作り出された偽物の本とされています。しかし「便宜十六策」と「諸葛氏集」などの文章が残されている「太平御覧」と呼ばれる書物に記載されている文章と一致する部分があるため、全てが偽物ではありません。
そのため「はじめての三国志」の読者の方で諸葛亮が作り出した軍令をもっと深くまで知りたいと思っている方は、ぜひ「便宜十六策」を購入して見るのもいいのかもしれません。
■参考文献:
講談社学術文庫「諸葛孔明」三国志とその時代など
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