三国志から生まれた故事のひとつが、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」。五丈原の合戦にて蜀の諸葛亮孔明と魏の司馬懿仲達とが対峙した際に、陣中で孔明の寿命が尽きてしまいます。
この時、孔明が遺言した最後の策によって、蜀軍は無事に撤退することに成功しました。
総司令官の急死という最大のピンチを迎えつつも、孔明最後の作戦で魏の司馬懿を出し抜いたこと。それをもって「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事が残りました。
この記事の目次
五丈原での敗退は蜀の衰退を決定した!?
もっとも、撤退を無事に成功させたとはいえ、五丈原の合戦、軍事的には、蜀軍の負け。
そもそも五丈原の合戦は、諸葛亮孔明が魏に一か八かの勝負を挑んだいわゆる「孔明の北伐」の、第五回戦。言い方は悪いのですが、孔明ほどの指揮官が五回戦も挑んでも、成功を得ることはなかった程、蜀の形勢は不利でした。
身も蓋もない話をすれば、正直なところ、蜀に多少でも勝機があったのは第一次北伐の時くらい。
その後は魏の側もどんどん防衛力を高め、なおかつ、魏側の司馬懿が孔明の戦略をどんどん理解しぬいてしまったこともあり、回を重ねるほど北伐の勝算は厳しくなっていました。
よしんば五丈原の合戦で孔明が没することなく長生きし、第六回、第七回の北伐を組織したとしても、けっきょく蜀軍が勝つことは難しかったでしょう。
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【北伐の真実に迫る】
もし諸葛亮が司馬懿に勝つために孫子の兵法をもう一度読み直したら?
ですが、ここで諦めてはいけません!三国志ファンの楽しみのひとつは、「あり得たかもしれない夢のイフ展開」を膨らませてみること。
今回は、五丈原の戦いで諸葛亮が没していなかったと仮定し、さらに、そこから孔明が起死回生の「北伐成功」に持ち込む可能性はあったかを考えてみましょう!
そもそも、孔明の北伐はどうして回数を重ねるたびに苦しくなったのでしょうか?
最大の要因は、北伐の軍事行動が、いってみればワンパターンにハマッていたからといえます。
そんな膠着状態に悩んでいた孔明が、五丈原で体調不良に悩まされ、史実では没する筈のタイミング・・・で、奇跡的に病状が回復し、健康を取り戻したら?
寿命がまだ続くことを天に感謝した孔明は、心機一転した心持ちで、ふとこんなことを考えるかもしれません。
「そういえば若き日に勉強していた『孫子の兵法』には、よい言葉があったな?」久しぶりに孫子を開くと、目に飛び込んでくるのは、
「兵は詭道なり」の名言。
「そうだ!ワンパターンの攻撃をやめて、相手の虚を衝くことが何よりも重要だ!私も初心に戻って、孫子の兵法に徹底的に忠実な戦略を実施しよう!」
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司馬懿は孫子の兵法を戦いで用いたことある?
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五丈原で没さなかった諸葛亮の秘策は「自分は五丈原で没したことにする」!
いっぽうの司馬懿のところには、意外な情報が入ります。「諸葛亮が没した」と。これに司馬懿は喜ぶことでしょう。ですが、これは、諸葛亮の流した偽情報。
そうです!
「史実と違って、五丈原の陣中で没しなかったイフ世界の孔明」が採用する戦略は、なんと、「五丈原の陣中で没した、という偽情報を流す」ことで魏の油断を誘うこと。
孫子の兵法にいう、「能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示す」です!
孔明が実は指揮をとり続けているのに、あたかも、もはや孔明はいないように見せること。のみならず孔明は恐らく、魏延のような不穏な味方にも自分の死去という偽情報を流し、反乱を誘発し、自軍内の危険分子粛清にもまんまと成功してしまうでしょう。
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「死んだことになっている」ことで自由を得た孔明の深謀遠慮が始まる!
引き続き孫子の兵法にいわく、「近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示す」。
自分は死んだことにしている孔明は、存命を姜維や馬岱などの信頼できる仲間のみに知らせ、彼らに蜀の守りを任せて、自分は自由自在な隠密活動に出るでしょう。まさに、地理的な制約条件さえも無視した工作開始!
まず、呉に密かに潜入し、陸遜の屋敷を訪れて彼には自分の健在を明かします。孔明は陸遜の理解を得て、ひそかに蜀呉の共同作戦の密約を練るでしょう。蜀の丞相として忙しかった時には、とてもできなかったような、自らを使節とした大外交です。
呉を抱き込んだ後の諸葛亮は魏の中をさまざまに移動し、各地の反乱勢力に決起を促します。こうして魏の上層部がのんびりしている間に、中国大陸全土を巻き込む「魏への大包囲網」が完成していくのです。
さらに孫子いわく、「利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取る」即ち、餌を用意することで相手にあえて攻め込ませ、混乱させ、これを破る。この要諦をおさえた孔明の戦略は、「孔明亡き今、蜀は攻めやすい」の流言を魏に溢れさせ、司馬懿を指揮官にした蜀討伐軍を決起させる事です。
そして司馬懿が蜀に入った途端、諸葛亮より指示を受けていた万全の防衛軍が姜維の指揮で出迎えます。司馬懿軍は漢中の難儀な地形で足止めを食うでしょう。その機会をもって、南から陸遜が北上開始。
さらには、涼州、徐州、冀州など、かつて曹操にひどい目に遭わされた記憶のある土地で続々と反乱軍が決起します。諸葛亮はそれら反乱軍の間を飛び廻り、巧みに指揮して、各地で魏軍を破るでしょう。
司馬懿が「孔明が生きていた」と気づいた時にはもう遅い。「仲達を走らす」どころか「地獄まで走らせる」恐怖の策動の只中です!
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まとめ:「夢を見すぎ」と怒られるのは承知のイフ展開ですが何か
今回は、孔明が五丈原で没していなかったら、と仮定し、さらに孔明がその立場をフル活用して、魏への大逆転を演じるイフ展開を考えてみました。もちろん、こんな途方もない逆転、夢物語と言われればそれまでです。ですが、どうせ正攻法の北伐が五回も失敗した後なのです。
もし孔明が長生きしていたら、これくらいの奇抜な戦略で大暴れしてくれたら、と三国志ファンの一人として夢を膨らませてみました!そもそも、これはちゃんと「孫子の兵法」の理念、「兵は詭道」に沿って考えたシナリオです!実現可能性、いかがでしょう?
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