日本における女性参政権は、1945年の12月17日の改正衆議院議員選挙法の公布で実現しました。
女性の地方参政権は、少し遅れて1946年9月27日に地方制度改正で実現します。
しかし、これはあくまで戦後の話で明治の初期には女性でありながら選挙権を行使した女性がいました。
それが民権ばあさんとして親しまれた土佐の女傑、楠瀬喜多です。
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この記事の目次
自由民権の闘士になった楠瀬喜多
楠瀬喜多は、天保7年(1836年)土佐で米穀商の娘として生まれました。
生まれついての男勝りで文武両道を地で行き、1857年に土佐藩の剣道指南を勤める楠瀬実と結婚します。
これで良妻賢母になるかと思いきや、喜多の武芸への情熱は止まらず、夫に剣術と薙刀を習いながら、
さらに別の師について、鎖鎌の奥義を極めたというはちきんでした。
夫婦仲は良かったようですが、1874年39歳の時に17年連れ添った夫と死別します。
二人には養子も含めて子供がいなかったので喜多は戸主として楠瀬家を相続しました。
※はちきんとは、土佐の方言で、男勝りの女性を言う。語源は、4人の男を手玉に取る八個のキンタマを握っているから
立志社の自由民権の演説を聞き民権ばあさんと呼ばれる
夫を失った喜多は、たまたま板垣退助が開いた自由民権運動の結社である立志社で自由民権の演説を聞きます。
これに喜多は感激し、頻繁に聴講するようになりました。
当時、女性で自由民権に関心がある人はほとんどいなかったので、周囲に珍しがられ「民権ばあさん」と呼ばれるようになります。
喜多は聡明な女性であり、聴講するだけでなく弁士として演壇に上る事もありました。
しかし、当時は演説会には必ず警官が張り付いていて、ちょっとでも過激な言葉が出ると「弁士中止」と解散させられます。
ある時、喜多が演説中に水を飲んでいると、警官が弁士中止と叫びました。
ところが喜多は少しも慌てずに悠々と水を飲み干すと、
「これはおかしい、水を飲むのでさえ警察官の指揮を受けねばなりませぬか?
水を飲むのも箸を持つのも一々、指図されないといけないのならば、
それでは、とても生きている事にはなりますまい!諸君そうではありませぬか!」
このように激しい剣幕で理路整然と反論したので、聴衆は拍手喝采したそうです。
そのような事もあり、喜多も板垣退助の立志社の党員の面倒を見たりし土佐の民権ばあさんは有名になりました。
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女を理由に選挙権が認められない理不尽を内務省に直訴する
1878年、喜多は高知県区会議員選挙に投票する為に出かけます。
当時、府県会規則には、選挙資格を満20歳以上の男子でその郡区内に本籍を定めて地租を5円以上納める者という定めがありました
しかし、府県会の下部組織である区町村会には、郡区町村編成法に全国的な統一基準がありませんでした。
そこで、喜多は自分は戸主であり5円以上を納税しているのだから選挙権があると考えたのです。
ところが投票所は「女には投票権は認められていない」の一点張りで喜多の投票を拒否しました。
「戸主として納税しているのに、女だから投票権がないとは何事か!」
道理に合わないと思った喜多は、「権利の伴わない義務は必要ない」として一切の税金を滞納します。
さらに、喜多は高知県庁に抗議文を提出しますが、県庁は抗議文の受け取りを拒否。
すると喜多は内務省に対して意見書を提出、性別のみで投票拒否をする理不尽を訴えたのです。
1880年喜多の主張が通り戸主に限り女性参政権が認められる
喜多の真っ当な訴えを、翌年、大阪日報が大々的に報道します。
これが大きな反響を呼び、東京日日新聞などの各紙も喜多の訴えを取り上げます。
かくして、土佐の民権ばあさんの名前は全国区になり、自由民権運動のうねりと結びついていきます。
3カ月に渡る抗議運動が繰り広げられ、高知県令はついに折れ1880年、9月20日、政府より区町村会法が発布され、
区町村会選挙規則制定権が各市町村会で認められ戸主に限り、女性にも参政権が認められたのです。
これは、1869年にアメリカワイオミング州で実現した婦人参政権、1871年にフランスのパリコミューンで
短期間ながら女性参政権が認められたのに次ぐ、世界で3番目の快挙でした。
女性の参政権を求めて処刑されたオランプ・ド・グージュ
私達は学校教育でフランス革命を学び、そこで人権宣言についても触れられると思います。
ですが、その人権宣言の人権とは男性のみの権利であり、女性の人権は全く保障されていませんでした。
当時のフランスの女優で劇作家だったオランプ・ド・グージュは人権宣言から女性が排除されている事を問題提起し
自ら17条から構成される「女性および女性市民の権利宣言」を書き上げて女権の確立を訴えました。
ところが彼女は、女権の拡張をよく思わない急進勢力のジャコバン派に睨まれる事になります。
そして、王党派を擁護して革命を裏切ったという理由で逮捕され、ギロチンの露になってしまったのです。
今では、当たり前の女性参政権も、オランプのように命を懸けて女権の拡張を求めた人々の上になりたっています。
ある時、天から降って来たようなものではないのです。
たった四年で幕を閉じた女性参政権
しかし、1884年政府は区町村会から区町村会選挙規則制定権を取り上げて婦人参政権を排除します。
戦前の日本における婦人参政権は、わずか4年で終りますが楠瀬喜多は行動する女性の先駆けになるのです。
楠瀬喜多はその後も、自由民権運動に関わり続け、1920年、大正デモクラシーの最中に84歳の長寿を全うし亡くなりました。
明治時代ライターkawausoの独り言
楠瀬喜多は社会の因習にそのまま流される事なく、オカシイ事はオカシイと言いそれを貫いて男尊女卑が当たり前の明治初期の日本で、
婦人参政権を勝ち取る快挙を成し遂げました。
権利というのは、与えられるのを待つのではなく自ら勝ち取るものである事。
オカシイ事は声をあげてオカシイと言うべきだという事を喜多は、言いたかったのでしょうね。
参考文献:ゴーマニズム宣言スペシャル 大東亜論第三部 明治日本を作った男達
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