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この記事の目次
為袁紹檄豫州文の概要
ではこの為袁紹檄豫州文、簡単に説明しておきましょう。大まかにいうと「曹操は悪人です」「袁紹様は正義のために立ち上がりました」「みんな袁紹様に味方しようね!」ということなのですが、この曹操の部分に「曹操の生い立ち」が書かれているのです。
曹操は宦官の孫であり、父親は養子として夏候氏から貰われてきました。当時、異姓から養子を貰うというのはかなり常識外れだったということもあり、その事についても陳琳は非難しているのですね。
袁紹から曹操へ
ですが結果として袁紹は曹操に敗れます。その後、陳琳は曹操の元に引き出されて「自分だけならまだしも、どうしてお前は祖父や父まで罵倒したのか」と言われますが、陳琳ははっきりと「引き絞った弓矢は放たないわけにいきません」と答えました。
不思議なことに陳琳は許され、その後、建安七子のメンバーとして活躍することとなります。そして後に呉に対するプロパガンダ文書「檄呉将校部曲文」を書き、これも文選に収録されています。因みにこっちでは曹操をべた褒めです……まあプロパガンダってそういうものですね、はい。
為袁紹檄豫州文のあれこれ
さて為袁紹檄豫州文、実はあんまり日本では有名な内容とは言えません。と言うのもこれについて、筆者は文化の違いだと考えています。なぜなら曹操がどうして宦官の孫と言われて怒るのか、ちょっと想像が付かないという人も多いでしょうから。
日本には宦官文化というものがなく、それに対する蔑視や侮蔑が今一つ伝わりにくい……例に出すと「サノバビッチ」という単語は日本ではなじみがないですが、英語圏で使うと酷い侮蔑言葉の上に人間としての品質を疑われることすらあるそうです。
ただ日本ではなじみがないから、言われてもピンとこない……曹操の一件もこれに近いのではないかと思うのですよね。だからこの件に関してあまり認識が薄いのではないか……と、今回筆者はふと考えたのでした。
三国志ライター センのひとりごと
今回は陳琳の話から、ちょっと気になる曹操の出生について良くある罵倒、についても考えてみました。こういう馴染みがない罵倒などはピンとこないこともありますが、それが文化や時代の違いと思うと興味深くもあります。気に留まらない些細なことかもしれませんが、こう言った小さなポイントにももっと意識を向けていきたいですね。
参考文献:魏書王粲伝 後漢書何進伝
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