伊達政宗とはどんな人?生い立ちから最期、性格などすべて丸わかり!


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伊達政宗

 

伊達政宗(だてまさむね)について解説します。奥州の覇者で独眼竜(どくがんりゅう
)
、また初代仙台藩主として有名な伊達政宗。あと20年早く生まれたら天下を取っていたかもしれないと言われる人物とは、実際にどんな人生を歩んでいたのか?数々のエピソードから検証して行きます。


誕生と物心ついた時に起こった右目失明

 

伊達政宗は1567(永禄10)年8月3日に米沢城(出羽の国)の伊達輝宗(だててるむね)の嫡男として生まれました。政宗の先祖伊達氏とは鎌倉時代から続く名家で、初代・伊達朝宗(だてともむね)は、源頼朝(みなもとのよりとも)と共に戦い、奥州藤原氏との奥州合戦で活躍しました。それから政宗まで16代に渡って奥州の地を治めます。


幼名は梵天丸、「独眼竜」との異名を持つきっかけとは?

 

幼名は梵天丸(ぼんてんまる)。母・義姫(よしひめ)は、出羽の戦国大名、最上義光(もがみ よしあき)の妹で、正室の子のため、生まれながらに伊達家を継ぐことが決まっていた政宗。しかし5歳の時に最初の悲劇に見舞われ、天然痘を発病しました。病気は回復したものの、それが原因で右目を失明します。これが政宗に「独眼竜」との異名を持つきっかけとなりました。


独眼竜の異名の由来は李克用

 

元々は中国の唐王朝の末に活躍した軍閥・李克用(りこくよう)の異名です。これを江戸時代後期の儒学者・頼山陽(らいさんよう)の漢詩で政宗を題にとったものがあり、そこから「独眼竜政宗」として広まりました。

 

大河ドラマなどの時代物で、政宗は刀鍔型の眼帯をしているシーンが多いのですが、実際に覆っていたという記録は残っていません。ただ明らかに左目と比べて白濁した目の開きが悪いことから、政宗の希望により右目を黒く描いている肖像画が存在します。

 

ちなみに失明した右目を自らえぐり出したという逸話もありますが、実際には家臣の片倉景綱(かたくらかげつな)が、政宗の命に従い、小刀で右目を突きつぶしたと伝わります。この人物は、その後政宗の軍師の役割を果たしました。

 

十代で家督・奥州支配・20年遅れの英雄

 

1577(天正5)年の10歳の時に元服し、伊達藤次郎政宗と名乗ります。頼朝以来の名家である伊達家では、父・輝宗のように足利将軍家の名前をもらうならわしがありましたが、足利将軍がすでに追放されていたため政宗はそれではなく、伊達家9代政宗の名前をもらっています。この人は南北朝時代の伊達家中興の祖とされた人物。その活躍にあやかって名乗りました。


1579(天正7)年13歳:正室の愛姫を迎える

 

そして1579(天正7)年13歳のときには早くも正室の愛姫を迎えています。これは政宗の又いとこにあたる人物。1581(天正9)年に初陣を飾りました。この頃から父に代わり、近隣大名との外交を政宗が担当したと伝わります。1584(天正12)年に父の引退による家督相続。以降政宗は、領土拡大の戦いを続けて行きます。近隣の大内(おおうち)畠山(はたけやま)蘆名(あしな)と言った近隣諸大名と戦います。

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