椿井文書とは、江戸時代後期に山城国相楽郡椿井村で誕生した学者、椿井政隆によって作成された偽文書の数々を指します。古来、古文書には偽物が多いものですが椿井文書の特殊性は、数量、バリエーション、活動範囲がずば抜けて広い事でした。
椿井は多彩な人物であったようで、差出人を偽造した古文書ばかりか、由緒書、家系図、絵図まで作成。怪しまれないように複数人の筆跡を使い分け、近江、山城、河内の広範囲で無数の偽書を作成。中には郷土資料として本物扱いを受けているモノまであります。
今回は馬部隆弘著 椿井文書 日本最大級の偽文書を参考に、どうして偽文書が受容されるのかを考えてみます。
この記事の目次
椿井政隆とは何者か?
では、日本最大級の偽文書、椿井文書を産み出した椿井政隆とはいかなる人物でしょうか?
椿井政隆は天明7年(1770年)5月15日山城国相楽郡椿井村に誕生しました。
幼い頃は藤千代、市郎丸を名乗り成人してからは通称を右馬丞、後に権之助に改めています。
諱は最初、政昌、後に政隆と改名し通称は広雄、堂号は南龍堂でした。
若い頃から、椿井流兵学、国学、有職故実、本草学に通じていたようで、これらをそのまま信じるなら、椿井は江戸後期の兵学者、国学者、漢方医という事になります。
また椿井が兵学に通じていた事を示す史料はないものの、弓術指南として免許を発しているので、相応の弓術の心得があったかもしれません。
椿井の経歴が面白いのは、文政2年(1819年)6月11日に江州蒲生郡麻生山で、長さ30mもある大蛇を斬殺したという逸話が載っている事です。偽文書の製造元ですから、にわかに信じられたものではありませんが、自分を立派な人間だと誇示したい虚栄心は見えてくるような気がします。
椿井政隆はいつから偽文書に手を染めた?
そんな椿井政隆がいつから偽文書に手を染めたのか?
まさか、今日から偽文書やりまーすと日記に書くわけもないので推測ですが、それは椿井が30代を迎えて時代が19世紀に入ってからのようです。
文化元年(1804年)膳所藩領の近江国滋賀県南庄村で龍の骨と称されるナウマン象の頭の骨が発掘されました。上田耕夫という絵師が骨を絵図に記録して「龍骨図」を出しましたが、椿井政隆は龍骨図を筆写し「伏龍骨之図幷序」とタイトルをつけています。
しかし、よせばいいのに椿井は、伏龍骨之図幷序に由来を書き足し、
「祖先の椿井式部卿が聖武天皇の命を奉じて湖北の伊香山中で退治した龍の骨だ」とキャプション偽造をしています。
この頃にはすでに偽物づくりに手を染めていたのでしょう。椿井は当時としては長生きの部類の67歳まで生き、死の数年前までは元気に歩いて偽文書づくりをしていたようですが、椿井と面識がある人は椿井をうさん臭い人物と評しているので、ま、そんな人だったんでしょう。
誰が椿井政隆に依頼したのか?
さて、偽文書と言っても、椿井は遊んで暮らせる身分ではないので無償で偽文書を作成して配って歩いていたわけではありません。つまり、「これこれこのような内容の文書を見つけて欲しい」と暗に偽文書を依頼したクライアントが存在するわけです。
それは誰か?具体的には、山の支配権を巡り衝突を繰り返していた隣村同士だったり、裕福で暮らしには困らないものの自分の先祖についてよく分からない豪農だったりします。
つまり、偽文書には「こうであって欲しい」「ああだったらいいのに…」というクライアントの妄想や願望が閉じ込められているわけです。では、次では津田山の支配権を巡る相論に、いかに椿井政隆が関与したかを見てみましょう。
存在しない?津田城と津田一族
「津田史」や「枚方史」によると津田城は、旧来の領主、中原氏を駆逐した津田周防守正信によって延徳4年(1490年)に築かれたとされます。
孫にあたる津田正明の代には、三好長慶に仕える事によって、茨田郡の鞆、呂岐六郷、交野郡の牧八郷を安堵され枚方地域の大部分を支配したと書かれています。しかし、実際に津田城の本丸があったとされる部分は谷の最奥にあり、山城の構造としてあり得ない造りです。
そして、津田城の由来について記した書物というのは、ほとんど津田村の村人が編纂したもので、しかも17世紀以降のものばかりしか出てきません。つまり室町後期から戦国時代に存在したであろう津田城は同時代の史料からは確認できないという奇妙な存在なのです。
どうして、存在しない津田城がクローズアップされたのか?
それは、17世紀末に津田村と隣村の穂谷村で三之宮神社の祭りの利権を巡り200年に渡る争いが存在したからです。
津田村は三之宮神社が間違いなく津田村の所有であると強調する為に京都町奉行所に、でっち上げの津田山絵図を証拠として出しますが、この地図には津田城を中心に9ヵ所に渡り、津田村山内と書かれていました。これらの証拠とこれまでの経緯が決め手になり、相論は、津田村の勝利に終わります。
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