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この記事の目次
穂谷村の氷室伝説に椿井政隆登場
しかし、悔しいのは穂谷村です。
津田村内に三之宮神社があるのは認めるにしても、津田城なんかこれまで見た事も聞いた事がないからです。そこで、向こうがその気ならと、穂谷村には大和朝廷が置いた氷室という氷の貯蔵庫があり、それが最初に穂谷村に設置され、天長8年(831年)には尊延寺、杉、傍示にそれぞれ増設されたと言い出しました。
確かに日本紀略には、天長8年に河地と山城に3ヵ所ずつ氷室を設置したという記述がありますが、それが具体的にどこという記述はありません。それを逆手に取って、氷室伝説を大々的に盛り上げたのです。
ただ、氷室が過去に穂谷村にあったという古い記録がありません。
そこで穂谷村は、椿井政隆に「氷室本郷穂谷来因之記」という文書を見つけださせます。ここには、永正17年(1520年)に南都興福寺の運営にあたった三鋼という僧侶が、氷室の出来た由来を承認するもので、ちゃんと花押まで押してありました。
もちろん、これは椿井政隆の偽書であり、過去を捏造する事により、穂谷村の氷室伝説を事実とする為に援護射撃しているわけです。
こうして、神社の利権争いに始まった津田村の津田城と穂谷村の氷室は双方が相手に負けない為に、全力で宣伝する形になり嘘にもかかわらず、様々な史料に引用され、もう引っ込みがつかなくなっているのです。
ただ津田城に関しては、城ではなく過去に山岳寺院があり、戦国時代に大和の松永久秀や三好三人衆が、この寺院跡に軍事拠点を置いたりしているそうです。
史実になってしまった津田城や氷室
津田城や氷室は、嘘にもかかわらず、現在でも試しに津田城で検索してみると、ちゃんと津田城の紹介サイトにぶつかります。また、津田城を築いた「らしき」津田正信はWikipediaで出てきますし、なんと4代目の津田正時に至っては信長の野望オンラインに登場さえします。
武将紹介には、仕える主君、仕える主君が次々に滅ぼされる残念な武将とありますが、それは津田正時の責任ではなく、津田城も津田一族も偽文書なので、津田氏に江戸時代まで存続されては困るからでしょう。滅ばないと嘘がばれるから滅ぶのです。
そして、椿井も関与した穂谷村の氷室については、現在氷室小学校という学校があり、校歌の歌詞の一番には、
その上の 桓武の御代に 置かれたる
氷室の跡の 名を負える これの学び舎
父母も 学び給いぬ はらからも 共に学べり
ああ我等 勉め励まん
このようにあり、堂々と氷室「伝説」が事実として歌われています。
椿井文書日本最大級の偽文書の著者、馬部隆弘氏は、枚方市の教育委員会に在籍していて、氷室や津田城の話は偽書であると訴えたそうですが、聞く耳を持ってもらえなかったそうです。
また、大坂府枚方市には、古墳時代に日本に来朝した百済の学者王仁の墓があり、元々オニ墓と呼ばれていた埋葬者不明の墓を王仁墓と認定した有力な証拠として「五畿内志」や「王仁廟墳来朝記」という記録が採用されていますが、王仁廟墳来朝記は椿井政隆の偽文書です。
ところが、その事「王仁廟墳来朝記」を根拠に2008年3月1日には、枚方市と全羅南道霊岩郡が友好都市提携を実現してしまいました。友好都市は結構ですが、それが椿井政隆というひとりの男の偽書から始まったという事では、さすがに問題があるのではないでしょうかね?
趣味と実益を兼ねた椿井政隆
そんな椿井正隆ですが、クライアントの願望や欲望に沿ってビジネスライクに偽書を作成したのかと言えば、どうやらそうでもないようです。その証拠に、政隆死後に大量の椿井文書が在庫として残った事や、当時の書礼を無視した、つまり似せるつもりがない空想の文書や、自分の考えを絵にしただけのパノラマ絵図等が発見されています。
椿井政隆の偽文書づくりは第一に趣味、それに実益を混ぜて行われていた作業のようです。さらに政隆は偽文書づくりがバレた時に、なんちゃってと言い逃れる為に、未来年号と呼ばれる。現実にはあり得ない年号をあえて書いていたります。
例えば円満山少菩提寺四至封彊之絵図では、明応4年(1495年)4月に書かれた絵図を椿井政隆が模写したという手口になっていますが、実際に年号が延徳4年から明応元年に代わるのは、7月で4月はまだ延徳なのです。
これは偽文書作りがバレた時に「すべて戯れですよ!」と言い逃れる為の工夫だと思われますが、同時に「完璧な偽物じゃつまらない」という椿井の遊び心の反映かも知れません。
もっとも、需要があるとはいえ、お金をもらって嘘を振りまいている以上、やってることは犯罪です。封建体制の江戸時代では家系図の詐称は発覚すれば死刑になるような重い罪でした。捕まらなかったから良いようなものの、バレていれば椿井は死罪を免れなかったでしょう。
現代人をも欺く椿井サーガのディレンマ
椿井文書の巧妙で悪質な点は、それが圧倒的に数が少ない中世古文書の体裁を取っている点です。数が少ない中世古文書は同時代の違う史料によって否定する事が難しいので、椿井は意図的に近世を避けて中世文書を偽作していました。
しかし、現代の研究者にとり、大量に残された中世文書の模写という触れ込みの椿井文書は非常に魅力的で、胡散臭いと知りつつ、ついつい本当の中世史料として取り上げてしまう研究者も多いのだそうです。
もう一つ椿井の巧妙さは、すでに名前の知れた知名度の高い、五畿内志のような史料を上手く取り込んで、その記述の弱い所に偽文書を産み出していく点にあります。
前述した王仁墓も最初に五畿内志が、オニ墓は王仁墓の訛りであると記述した点を根拠に「王仁廟墳来朝記」という偽書を産み出して補完しています。多くの人は、五畿内志に王仁墓とあるのだから「王仁廟墳来朝記」も本当だろうと何となく信じてしまうのです。
また、椿井正隆は、興福寺官務牒疏のような根本文書を偽造、興福寺の末寺として、近江、山城、大和、伊賀、河内、摂津という広範囲の寺の創作文書を作成しています。
そして、そこに連なる形で椿井一族の祖をはじめ、該当地域の豪農の先祖として名のある武士を創作する形で記録し、それらの先祖の名前をまた別の偽文書でも使い、複数の偽文書に登場させる事で偽文書と偽文書を繋げ際限なくループさせました。
これは壮大な椿井サーガとも呼べるもので、自分の古文書だけでなく他の地域の古文書でも自分の先祖の名前を見つけた人々は、椿井政隆という1人の人間が大量に書いてばら撒いた偽文書だとは夢にも思わず信じてしまうのです。
明治維新後、各地に広がった椿井文書
椿井政隆の生前に、近江、山城、大和、伊賀、河内、摂津の村々や豪農の家に流布した偽文書は、明治維新後に没落した椿井家が、椿井正隆の偽文書を生活の足しにする為に売り出した事で全国に広がりました。
そして大東亜戦争の敗戦後、高度経済成長を遂げた各自治体が、足元の歴史を見つめ直した時に、一度売却された椿井文書が再び里帰りしてきたのです。古文書を専門にする研究者には、椿井文書は簡単に判別がつくのですが、素人には難しく、また、椿井文書が活字に直されると、書式や文字のクセが消えてしまい、研究者でもあまり疑わずすんなり受け入れてしまうとか…
こうした事から椿井文書は偽文書でありながら、今でも郷土史として活用され、また学術書でも採用されるという困った事態が続いています。椿井が残した嘘は膨大であり、嘘だと分っても、そう簡単に払拭されたりしないでしょう。
だって多くの偽文書は、クライアントの「そうであって欲しい」という願望の産物だからです。
kawausoの独り言
椿井政隆はフィールドワーカーでもあり、偽文書を作成するにあたって何度か現地に足を運び、土地の伝承なども取り入れて、汗をかき、クライアントの満足がいく偽文書の作成に努めていました。
そんな事から、クライアントも椿井政隆に胡散臭さを感じつつも、メリットがあるなら受け入れようという気持ちになったようです。恐らく根っからの悪人ではなさそうな椿井政隆ですが、皆さんはどう思いますか?
参考文献:椿井文書 日本最大級の偽文書
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