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この記事の目次
小規模ながら犬山城にも「総構え」があった
総構え(そうがまえ)とは、城だけでなく町全体を堀や土塁などで囲って防御した空間のことを指します。豊臣秀吉の侵略に対抗するために造られた、小田原城の総構えが有名です(小田原城の回を参照)が、それよりも何十年も前に犬山城の総構えは造られています。もちろん規模は小さい(小田原の約1/6)ですが、戦国時代には小規模の総構えは様々な場所に存在していました。犬山城周辺には「本町通り」など、城下町の風情を残した観光スポットがあります。また、「練屋町」「鍛冶屋町」「魚屋町」などといった町名が残っており、名前の由来が書かれた看板が随所に設置してあります。ここでも戦国時代に思いを馳せることができますよ。
犬山城は個人の所有物だった
明治維新後、一旦は愛知県の所有物になった犬山城ですが、1895年に起きた濃尾地震で破損してしまった天守を修復したいという住民の声が高まりを受け、愛知県から修復を条件に尾張藩の付家老(つけがろう)であった成瀬家に無償で払い下げられました。以来、ずっと個人が所有する全国でも珍しい城だったのです。尚、2004年からは財団法人の所有になっています。それにしても個人が国宝の城を所有していたって、凄くないですか。維持費、大変だったんだろうと思います。ちなみに払い下げられた当時の修復費は現代に置き換えれば数億円規模だったと言います。私財以外にも義援金などでまかなったそうなのですが、成瀬家の心意気と犬山の人達のお城への愛のおかげで、私たちは今、戦国時代を、そして犬山城を堪能できているわけですね。
戦国時代ライターかずさんの独り言
いかがでしたでしょうか。
天守に昇り、城下町を見下ろしますと、気分は「お殿様」。戦国時代や江戸時代に思いを馳せ、想像するわけですは、犬山城ほど戦国時代に連れて行ってくれる城はないのではないかと思います。歴史は「覇者の歴史」ですから、戦国時代から江戸時代にかけて覇権を握った「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」といった武将の名が出てくる地域の史跡はやはり魅力が詰まっています。
その三英傑がもしかしたら天守に昇ったかもしれない犬山城。織田家から豊臣家へと覇権が移るきっかけとなった犬山城。見学には健脚が必要です。今すぐ訪問計画を練ってみてください。
参考:国宝犬山城(外部リンク)
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