戦国の城はどの程度で完成したの?戦国時代の素朴な疑問


 

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名古屋城

 

戦国時代は、そびえ立つ城が存在しないと始まりません。時代劇だって最初のアップは天守閣つきのお城の遠景である事が多いですよね?

 

でも、そんな城はどの程度の期間で完成したのでしょうか?

今回は、山城の築城期間について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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信濃上原城の築城期間

真田丸 武田信玄

 

城がどの程度の期間で完成したのか?それについて記している記録はあまり多くないようです。当時は、各地に小規模な城が多く築城されていましたから、それをわざわざ記録に残そうとは思わなかったのかも知れません。

 

そんな中で、武田信玄が諏訪(すわ)における拠点とした信濃上原城(しなのうえはらじょう)に関しては、築城期間についての記録が残っていました。

 

武田信玄が作った甲陽軍鑑

 

甲陽日記(こうようにっき)の記録によると

天文12年(1543年) 出来事
5月25日 鍬立(くわだて)(地鎮祭)
6月20日 普請(ふしん)
6月26日 城の御座(ござ)と4つの城門と木戸が建てられる。
7月13日 長坂上原在城衆(ながさかうえはらざいじょうしゅう)入城
天文13年4月15日 上原城完成

 

このように、信濃上原城は、鍬立から2カ月足らずで在城衆が入城し、住めるようになっている事が分かります。その後も工事は続き、全体では11ヶ月くらいで完成していますが、これは、城下町の建設まで含まれているという説もあります。とりあえず機能するようになるまでは、2カ月程度ですから、現在の一軒家よりもスピーディーに完成するみたいですね。

 

まるで一夜城?花の山城

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

戦国の城は、役割により規模も千差万別でしたが、敵の城の近くに建てられる付城(つけじろ)になると、さらに工事も簡単で迅速に築城されました。

 

島津氏が阿蘇氏(あそし)肥後堅志田城(ひごかたしだじょう)を攻める際に築城した付城、肥後花山城(はなのやまじょう)は、天正11年(1583年)10月28日から築城が開始。わずか2日で警備兵が警護できるレベルになり、11月10日、12日間で完成した事が上井覚兼(うわいかくけん)()日記に出てきます。

 

中国大返し(豊臣秀吉)

 

まるで、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)の墨俣一夜城ですが、花山城は山頂の曲輪(くるわ)と数段の帯曲輪(おびくるわ)程度で、明確な堀切もない簡単な城でした。花山城は、どちらかと言うと防塁のような意味合いが強そうですね。

 

はじめての戦国時代

 

築城の過程

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

一般的な築城は以下のような過程を経ておこなわれていたようです。

 

1) 城の位置を決める地選(ちせん)
2) 場所を確定する地取(ちどり)
3) 縄張を決める経始(けいし)
4) 土木工事の普請
5) 建築工事の作事(さくじ)

 

しかし、戦国時代の文書に見られる用語は「普請」が圧倒的で、「鍬初(くわぞめ)」、「鍬立」という用語がしばしば見られる程度であるようです。城の位置を決める地選や地取は、その土地の実力者や農民と相談して決めたらしく、そこが聖地だったりすると、農民の反対が起きて築城を断念するケースもありました。

 

一向一揆(農民)

 

強行すれば出来ない事はなかったのですが、地元の農民の恨みを買っては、いざという時に足を引っ張られるので、強行しない事も多かったようです。

 

城の普請は知行役と公事の2種類

 

では、戦国の城は、誰が主体となり築城していたのでしょうか?

 

比較的に研究が進んでいる後北条氏の普請は、家臣である給人(きゅうにん)に知行高により賦課(ふか)される知行役(ちぎょうやく)と、村・百姓に賦課される公事の2種類がありました。これは、武田、上杉、毛利など各地の戦国大名にもおおむね共通していたようです。

 

また、城は一度築城すればメンテナンスの問題がつきものになります。

例えば、後北条氏の城、玉縄城(たまなわじょう)の塀のメンテナンスは、玉縄城領内の東郡(さきぐん)三浦郡(みうらぐん)久良岐郡(くらきぐん)の3郡に課されていて、台風などで塀が壊れると、奉行人に催促される前に自発的に修復する事が義務付けられていました。

 

そして、この三郡のメンテナンス義務は玉縄城がある限り末代まで続くとされ、三郡は城と運命共同体とされました。城のメンテナンスは、かなりの負担で戦国時代が終わると農民たちは使わない城の廃棄を望む事が多かったようです。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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