はじめての三国志Tvをご覧の皆さん。今週もお疲れ様でした。今回のお疲れキャラは荀彧です。
ところでどうして曹操は荀彧を配下にした時に吾が子房也というほどに喜んだのでしょう。調べてみると曹操は荀彧に出会った頃にはジリ貧だった事が分かってきます。
一度は兗州を手に入れた曹操ですが、豪族の取りまとめには失敗していて徐州で略奪している間に陳宮に叛かれます。曹操は急いで引きかえして呂布を追い払って兗州を回復するものの兗州豪族は完全に曹操についたわけではありません。
同時に徐州でもやりすぎた曹操は徐州も直接支配できないで臧覇に任せて遠隔統治をしています。曹操は新しい拠点を求めていました。
その時に出て来たのが豫洲潁川郡の荀彧です。潁川の名族、荀彧を通して曹操は潁川を拠点とする事が出来たのです。もうひとつ、曹操は汝南名士でしたが、その汝南の名声において袁紹に負けていました。そこで隣り合っていた潁川に自分の拠点を持ちたかったのです。
例えば、献帝の宮殿がある許県も潁川郡ですし曹操が屯田を開始したのも潁川郡許県付近の元、青州黄巾賊を使ったものでした。曹操は人材と拠点の2つを荀彧を得る事で獲得したのです。