はじめての三国志Tvをご覧のみなさん、今週もお疲れ様でした。今回のお疲れキャラは荀彧です。
荀彧の伝記には正史三国志と後漢書がありますが、この2つの記述は微妙に違います。どうして違うのかというと後漢書は荀彧が過去に董卓に仕えた過去を隠蔽しようとしているのです。例えば荀彧の任官は永漢元年です。
後漢書では、これが中平6年になっています。どちらも西暦189年ですが、永漢元年は董卓が献帝を擁立した後に出した年号で189年の9月の事。正史三国志の荀彧は、董卓が擁立した献帝に仕官し守宮令に就任します。つまり荀彧は、霊帝でも少帝でもなく献帝の臣だったのです。
守宮令は、宮中の仕事をする役職で元宦官の仕事ですが、袁紹や袁術が宦官を皆殺しにして日が浅いので非宦官の荀彧が就任しています。しかし、董卓の暴政が長くは続かないと考えた荀彧は「地元の為に働きたいので吏(地方公務員)にして下さいと願い出て亢父令に異動し、その後仕事を投げ捨てて潁川に帰還しています。
この後、荀彧は潁川の古老を集めて、「もうじき世が乱れ潁川は戦乱の巷になるから皆で冀州に逃げよう」と呼びかけますが、荀彧の一族以外に耳を貸す者はいませんでした。よく荀彧の先見の明と呼ばれる逸話ですが最近まで献帝に仕えていたなら、董卓が何をするか把握するのは難しくないでしょう。後漢書は漢の忠臣荀彧を演出しようと正史三国志の不都合な真実を隠そうと考えたのかも知れません。別に乱世なので、荀彧が曹操以前に誰に仕官しようと編集長は気にしませんけどね
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