日本はトップは無能だが現場の職員は優秀だというのは海外の評価です。本当はどっちも優秀であったほうがいいのですが…さて、日本史の大事件、黒船来航でも最初に外国の脅威に立ち向かったのは征夷大将軍でも幕府大老でもなく浦賀という小さな港の奉行…の配下である与力でした。与力は奉行を補佐する地位で旗本ですが、もちろん奉行と比較できる地位ではありません。
奉行に代わり黒船と交渉した中堅職員中島三郎助
しかし、ペリーがどんな出方をするか読めない状態で、浦賀奉行が迂闊(うかつ)に出ていき、不利な約束を交わしても後々困るので、中島三郎助が副奉行という奇妙な役職名でオランダ語通訳の堀達之助を引き連れて黒船に乗り込んだのです。
黒船の特徴を勝手にメモし翌年には洋式帆船が出来る
中島三郎助は身分は低いものの大胆な男で、日本語、オランダ語、英語の三か国語が飛び交う中で、黒船の調査を独自に開始、勝手に蒸気機関や大砲の寸法や性能をメモして、まとめると、それを元に幕府に洋式帆船を建造するように意見書を出し、翌年には初の洋式帆船、鳳凰丸が完成しました。
与力ながら日本の将来を考えた三郎助
その後も中島の向学心は止まらず、長崎に出来た海軍伝習所の一期生として学び、そこで得た西洋の知識を元に、日本最初の乾ドッグを建設して咸臨丸の修理をするなど幕末の日本史に少なからぬ貢献をしていました。「俺は与力だから、政治の事なんか関係ないね」ではなく、小さな浦賀与力から日本全体の事を考えて活躍した中島三郎助は優秀な現場職員の元祖と言えるでしょう。
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