世界史の奇跡と他国から賞賛され驚かれた戦後日本の高度経済成長。大東亜戦争後、国土が焦土と化した日本が急激に復興した理由として教科書ではGHQ主導による「財閥解体」や「農地解放」「労働組合結成の促進」がよく出てきます。しかし、これらは日本経済を民主化する土台であり、これだけで日本が経済大国にのし上がったわけではありませんでした。今回は戦後日本が一気に経済大国にのしあがった隠れた理由、後編です。
前回記事:日本が戦後の焼野原から 一気に経済大国にのし上がった隠れた理由は?前編
戦後日本の有様
敗戦直後の日本では、国土が焦土化した事でライフラインが破壊され多くの企業も活動を停止していました。またポツダム宣言受諾で海外の植民地を失った事や兵士の復員により、数百万人の国民が帰国し食糧不足と失業率の悪化に拍車をかけていました。
この状況で政府は基幹産業である石炭と鉄鋼産業の復興に巨額の予算をつぎ込み、また、これらの基幹産業が潰れないよう補助金を交付して手厚く保護します。しかし予算確保のための紙幣濫発は急激なインフレとなり物価は暴騰、手厚い補助金は財政赤字として累積し政府の体力を奪っていました。敗戦後の日本政府は税収がほとんどなく、アメリカの財政支援が主要な財源という危機的な状態だったのです。
ドッジラインによる痛みを伴う改革
これに対し、アメリカはデトロイト銀行頭取、ジョセフ・ドッジを日本に招いて財政再建を要請。ドッジはドッジラインと呼ばれる政策を打ち出して補助金を削減し緊縮財政を命じ、輸出を強化するために為替レートを1ドル=360円で固定しました。
補助金削減とデフレ誘導により市場から資金が消えると、資金繰りが悪化した企業が次々に倒産し、深刻なデフレ不況が到来しますが、体力のない企業が潰れて経営合理化に成功した企業が生き残った事で、日本の国際競争力は強化されます。
朝鮮戦争が経済大国への踏み台に
日本経済が世界で勝負する準備が出来たところで勃発したのが冷戦の縮図である朝鮮戦争でした。これはソビエト及び中華人民共和国の支援を受けた北朝鮮が韓国に攻め込み、韓国はアメリカを中心とする国連軍の支援を受けて反撃した構図でした。まさに朝鮮戦争は共産圏のソビエト・中国と資本主義圏のアメリカの代理戦争だったのです。
海を越えた隣国の戦争は日本の脅威でしたがビジネスチャンスでもありました。アメリカは日本の経済復興のために大量の軍需物資を購入したのです。朝鮮特需と呼ばれた空前の好景気で、日本は1950年から1953年までの3年間で10億ドルの契約を取り付け、1955年までに間接特需として36億ドルを稼ぎました。
この間、アメリカは技術者を派遣して日本製品の質の向上や最新技術の指導を積極的におこなっていて、戦中から海外技術の途絶に悩んでいた産業は息を吹き返す事になります。
不景気を抜け出すのは神武景気から
しかし、朝鮮特需は日本の輸出産業を強化し潤したものの、庶民生活までが好景気の恩恵に預かったわけではありませんでした。朝鮮戦争の勃発で日本は強引に資本主義陣営に組み込まれ、北朝鮮や中国との貿易を一方的に禁止されます。そして価格が高いアメリカ製品の輸入を義務付けられ輸入が輸出を上回ったのです。
また、輸出企業も戦争がいつ終わるか不透明な事から、多くの在庫を抱えるような事態には慎重で雇用を増やすよりは経営の合理化で対応する事が多く、日本国内は輸入の減少による欠乏インフレに苦しむ事になります。日本経済が不景気を抜け出すのは、朝鮮戦争が停戦となりアメリカの貿易禁止措置が解かれ、欠乏インフレが解消される1954年からでした。
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