三国志演義で「迷当大王」として描かれる羌族の親玉。羌族は漢の時代に中国西部で勢力を誇っていました。現在の地図で言うと甘粛省の西にある青海辺りが羌族のいるエリアです。
その後、三国鼎立の時代に入ると臨機応変に隣国の魏や蜀と駆け引きをしていたようです。それでは迷当大王や羌族にフォーカスしていきましょう。
羌族の支配エリア
21世紀も例外なく、中国は多民族国家です。それは古代中国の時代から連綿と続いており、中国の歴史は民族興亡の歴史とも言えます。三国時代、羌族は中国の西部で権力を誇っていました。
あの「馬超」も羌族の血筋と言われています。羌族は漢王朝と馬が合わず、たびたび反乱を起こしては抑えられるという、いたちごっこを繰り返していました。三国時代に入ると支配エリアが、ちょうど魏と蜀の間にあったことから、状況によって魏についたり、蜀についたり…。
三国志演義では、こうした少数民族がスパイスを効かせており、ストーリーを面白く仕上げています。
やがて、後秦や西夏として王朝を築くもチンギス・ハーンによって滅亡。現在は目立った政治活動はしていません。支配地域が中国の中心となる洛陽や長安に近かったために、そのとばっちりを受けた民族と言えるでしょう。
姜維と組む
ここからは三国志演義での迷当大王を中心に解説していきます。蜀・延熙16年の秋。将軍・姜維が羌族へと使者を派遣します。北伐の援助をしてもらうためです。金銀財宝を持っていた使者は、羌族のトップ・迷当大王に大歓迎を受けます。
そのとき姜維は蜀陣営におり、魏の討伐に手を拱いていました。そこで、羌族・迷当大王の力を借りて魏を共に成敗しようと提案したのです。迷当大王にしてみれば、羌族の支配エリアは魏と蜀の境、どちらか強い方に与する方が楽でした。
すると羌族は「俄何焼戈」を大先鋒として、5万の兵を動員。南安へと結集します。羌族の命運を懸けた一大イベントです。しかし、大将の迷当大王が魏の陳泰の策に掛かり、生け捕りにされてしまいます。
魏の裏切り
郭淮の薦めによって、投降を決意した迷当大王。魏軍を引き連れて、蜀へと戻ります。いわば案内役です。蜀の姜維と夏侯霸は出迎えにきますが、迷当大王が口を開く前に魏の将軍が後ろから切りつけてしまうのです。
投降したにも関わらず、魏軍の罠にかかって命を落とした迷当大王。優秀な軍師がいれば、違った最期を遂げていたかもしれません。
俄何焼戈はどこに?
迷当大王らの兵が南安に集結したと聞いた魏軍の陳泰は、5千の兵を連れて迷当大王の野営地へと忍び込みます。そして、陳泰は羌族の兵を内通させ、何人かの兵を魏軍から借りることに成功。
夜になると陳泰は羌族の兵を先頭にして、迷当大王の野営地へと潜り込みます。先頭に羌族の兵がいたものですから、やすやすと陳泰は迷当大王の陣営へと入れたのです。すると馬に乗った「陳泰」が陣営を駆け抜けます。一突きでやられた兵は馬ごと堀に落下。
陳泰は後ろから攻撃を仕掛け、郭淮は左側から一斉攻撃を開始。羌族の野営地は大混乱に陥ります。真夜中とあって、みな油断していたのです。郭淮と陳泰によって包囲され脱出不可能と見るや否や、俄何焼戈は自害してしまいます。
魏軍と戦う前に野営している段階で奇襲をかけた魏軍の陳泰が一枚上手だったということでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
部族を動かす力はあるもの、魏軍の謀略によって敗北を喫した迷当大王。
智謀知略によって支配する漢族と血統や力によって支配する羌族との戦術の差を描いたシーンと言えるでしょう。他にも呉の南蛮討伐では、面白い民族が登場します。自らを大和民族と意識する機会が少ない日本人にとっては新鮮に映る小説。
それが三国志演義なのです。
参考資料:
「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
「三国演義(中国語版)」長江文芸出版社
迷当 (三国时期凉州羌王)
俄何烧戈 (三国时期羌族首领)
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