日本の皇室は、1600年余りの歴史があり世界最古です。2位のイギリス王室が1000年位なので圧倒的に古いと言えるでしょう。しかし、世界に多くあった王室は革命や戦争で次々に倒れ、現在27しか残っていません。そして皇室も長い歴史の間には途中で倒れる可能性もあったのです。では、日本の皇室はなぜ残れたのでしょうか?
皇室が生き残った理由は権力を失ったから
日本の皇室は当初、ヤマト王権を構成する豪族の一つでした。しかし、大化の改新後に、隣国の大国、唐に対抗する為に天皇に権力を集中し中央集権制を採用します。そこから藤原摂関家に権力を奪われるなど権力を得たり失ったりを繰り返しますが、13世紀に承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後は、650年余り権力を失います。
以後皇室は足利や徳川のような武家の棟梁を征夷大将軍に任命する権威だけの存在になりました。しかし、後から見れば、この時権力を失って権威だけになった事が皇室が生き残る決定的な要因となります。
力がないから倒されない
明治維新まで天皇は僅か2メートル程度の築地塀に囲まれた御所に住んでいました。数人がかりでも倒せそうな築地塀ですが、ここを倒して天皇を殺し権力を握ろうとする人間はついに現れませんでした。それは天皇にろくに権力がないせいで、倒したからって権力が手に入る事はないからです。
力を失い貧しい人々の姿が見えた
権力を失った事で天皇は、時の権力者にすがり生きていく惨めな存在になります。応仁の乱後は、天皇を庇護していた室町幕府も落ちぶれ、天皇はあちこちの大名からの献金でなんとか生活を立てる有様でした。
戦国時代、天皇の御所は築地塀が破れても直せない程でしたが、その築地塀の穴の向こうに毎日を懸命に生きる庶民の姿を見ます。そして庶民の境遇に同情しその幸福と平和を祈る事が自らの義務だと気づいたのです。
貧しい人々のために徳川幕府に直訴
江戸時代に入ると天皇の生活は幕府により一応保障されますが、その暮らしはギリギリで、さらに禁中並公家諸法度により、政治に関与する事を一切禁じられました。しかし困難な時期に庶民の平和と幸福を祈るようになった天皇は貧しい人々に心を配る事を忘れません。
江戸中期の天明の大飢饉では、京都でも餓死者が出て窮地に陥った庶民が御所の周りを取り囲み、お千度を踏んで天皇に救ってくれるように懇願します。当時の光格天皇は出来る限りの救済措置を取りつつ、決まりを破って幕府に対し京都に米を回すように命じます。幕府はムッとしたでしょうが天皇の命令に従い、米を京都に送りました。
明治維新後から現在
貧しい者に寄り添い共感する天皇という立場は、明治維新を迎えると皇后の役割になります。これは天皇が陸海軍の大元帥となり常に軍服を着て威厳を強調する存在になったからです。しかし、大東亜戦争敗戦の後、天皇は軍服を着る必要がなくなり皇后と共に被災地を視察し、貧しい人、弱い人、病気や障害に苦しむ人に寄り添い、福祉活動をする人々を顕彰するようになります。
国民と信頼で結ばれる天皇
皇室がどうして倒れなかったのか?それは、権力を持たず権威だけの存在でありながら、常に国民と同じ目線に立ち、権力が見過ごしがちになる弱い人、貧しい人の近くにあって、慰め、励ましてきたからです。国民と信頼で結ばれ権力の足らざるを補完する存在の皇室が滅ぼされなかったのは、それなりの理由があるのです。
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