世界一の大都市江戸が誕生したのは、巨大な江戸城が築城されたお陰だった(前編)

2022年12月28日


 

江戸城

 

江戸の人口は18世紀初頭には推定100万人を超え、世界一の大都市に成長した事は知られています。では、どうして江戸にはこれだけの人口が集まったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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江戸は江戸城のお陰で誕生した

名古屋城

 

 

江戸が発展した理由は将軍が住んでいる天下のお膝元だからじゃない?確かにそれもあるでしょう。しかし、同じように将軍が住んでいた室町時代の京都や鎌倉幕府の所在地である鎌倉は、江戸のような急激な膨張を起こしませんでした。どうして、このような差が生まれたのか?それは、江戸には江戸城が築城されたからなのです。

 

 

天下一江戸城の全貌

江戸城範囲

 

 

現在の江戸城の敷地は皇居になっていて、普段は入れないので外から見て大きいなと思う事はあっても、敷地の広さを実感する事はなかなか出来ません。例えば江戸城の敷地は、230ヘクタールもあり、2位である大阪城の2倍、姫路城の10倍もあるのです。どうして、こんなに規模がでかいのか?それは江戸城が内堀の中にある江戸城をメインとした内郭と外側の城下町を含む外郭に分けられるからです。そのため、江戸城の範囲は西を四ツ谷駅、東を浅草橋駅、北を水道橋駅、南では新橋駅が含まれるほど広大でした。城下町まで城内に組み込むなんてズルいと思うかも知れませんが、家康は江戸防衛の人員確保のために城下町を一から造ったので、これも江戸城の一部なのです。

 

 

広大な江戸城を築くための天下普請

天下を収めた徳川家康

 

 

しかし、空前の大きさの江戸城はとても徳川家だけの財力では築城できませんでした。そこで家康がおこなったのが「天下普請」です。天下普請とは家康が諸大名に号令を掛けて、自発的に江戸城を築城するように呼び掛けた大土木工事です。もちろん自発的にと言っても実際は、徳川家に対する忠誠を試しているので断れば謀反の疑いありとされます。

 

参勤交代

 

 

そのため諸大名はこぞって江戸にやってきますが、この江戸城、最終的に完成するまで半世紀もかかっているので、諸大名や人夫のための本格的な住まいが必要になりました。こうして、江戸城に付随する形で大名屋敷や、旗本、御家人の屋敷が整備されていきます。こうして、大勢の武士が天下普請で呼び集められた事が江戸が空前の発展をする原動力になりました。

 

世界一の大都市江戸が誕生したのは、巨大な江戸城が築城されたお陰だった。後編に続きます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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