原宿も「忍者の里」だった!伊賀・甲賀だけじゃない原宿の歴史【どうする家康】

2023年1月9日


 

戦う忍者

 

忍者の里といえば三重県の伊賀と甲賀ですが、実はこの2つ以外にも忍者の故郷があるってご存知でしたか?そんな忍者の里、東京の原宿にあるのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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本能寺の変後、窮地に陥る家康

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

 

徳川家康は織田信長に招かれて大坂見物をしている時、本能寺の変に遭遇します。京都から堺は近く、謀反したのが明智光秀と聞いた家康は絶望。近くのお寺に入っていき、落ち武者狩りに遭って首を獲られるより潔く、ここで腹を切ろうとします。しかし本多忠勝に諫められて考えを変え、逃げられるだけ逃げてみようと決意しました。

 

 

家康の伊賀越えを支えた伊賀忍者

家康伊賀越

 

 

しかし、家康の前途は多難でした。最短距離で逃げるには伊賀の山々を越える必要があったのですが、このあたりは伊賀忍者のテリトリーであり、天正伊賀の乱で織田軍の虐殺にあった伊賀忍者は信長を恨んでいて、信長の同盟者である家康も恨まれていました。

 

こっぴどく敗退する徳川家康

 

 

ここで家康を救ってくれたのが伊賀忍者の一部で、そのお陰もあり、家康は大変な苦労の末に伊勢国に出て、そこから船で三河国に逃げる事ができたのです。

 

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関ケ原の戦いの後、原宿に土地を貰う

凍える忍者

 

 

家康を救った伊賀忍者は、そのまま家康に付き従い、同じく先祖が伊賀出身だった服部半蔵を頭として仕え、1600年現在の原宿表参道周辺にあった旧隠田(おんでん)一円に領地を拝領し共同生活を開始しました。このように伊賀忍者はかつて原宿に住んでいたのです。

 

 

伊賀忍者が崇拝した隠田神社

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

 

伊賀忍者は隠田一円に領地を貰うと、地元民が崇拝していた産土神(うぶすながみ)を第六天社として祀り、神社は明治維新後に隠田神社に改称されました。原宿は明治維新後も長い間、田圃が広がる農村でしたが、大正9年(1920年)渋谷区に明治天皇を祀る明治神宮が建立されると、一気に人通りが増加し、現在私たちが知るような賑やかな土地になったのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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