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若い頃の信長は旗本の次男三男を集め少数精鋭の愚連隊を組織していた[今どきの日本史]

2023年2月23日


織田信長

 

今回は若い頃の織田信長(おだのぶなが)について取り上げます。具体的には生まれてから桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい
)
今川義元(いまがわよしもと
)
を破るまでの間を中心に紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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初陣の織田信長

織田信秀(おだのぶひで)は信長のお父さん

 

織田信長(おだのぶなが)は1534年に父・織田信秀(おだのぶひで
)
嫡男(ちゃくなん
)
として生まれます。彼の初陣(ういじん)は14歳の頃でした。

 

 

今川義元

 

 

今川義元(いまがわよしもと
)
の軍が三河国(みかわのくに
)
の吉良大浜に入っていました。初陣の信長は兵800を率いて、今川軍が占領していた大浜を攻めました。信長が火を放ち、夜通し攻撃を続けたことで今川軍が撤退。今川義元(いまがわよしもと)はこの敗北が頭から離れず、初陣の織田信長を警戒するようになります。

 

 

 

家督相続後の反信長勢力一掃

 

織田信秀(おだのぶひで)が1552年に亡くなると、織田信長は嫡男として家督を継ぎます。

 

鼻をほじりながら無関心な織田信長

 

当時、信長は異様な風体と粗暴な振る舞いをすることが多かったことから「大うつけ者」と呼ばれていました。信長には弟・織田信勝(おだ のぶかつ)(信行)がいました。当時、信長が大うつけ者であることから尾張(おわり)国内で弟の信勝を推す動きもありました。

 

織田信長は父・信秀が病死すると、反信長勢力を滅ぼします。1555年には清洲城主(きよすじょうぬし
)
だった織田信友(おだのぶとも
)
を滅ぼしました。その2年後に弟の織田信勝(おだ のぶかつ)が兄信長に対して謀反を起こします。

 

信長は弟信勝を殺し、1558年には信勝に加担した岩倉城主の織田信安(おだのぶやす
)
を降伏させました。これをもって遂に織田信長は内紛が続いていた尾張国の統一を達成することになります。

 

 

今川義元を手本にした織田信長

泣いている織田信長

 

織田信秀は小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい
)
で敗れました。その後、安祥城(あんじょうじょう
)
が落とされ、織田家が持っていた三河国(みかわのくに
)
を失いました。当時、織田信秀の人質だった松平元康(まつだいらもとやす)(後の徳川家康(とくがわいえやす))は今川義元の人質になります。

 

織田信秀は今川義元の鉄砲による集団戦法によって負けました。信秀から家督を継いだ織田信長は今川義元との戦いに備えて、今川義元の軍の組織力に注目しました。しかし、今川義元の領国と比べると尾張一国は小さいことや重臣が信長に対して心から従っているとはいえないことから、今川義元の寄親・寄子制をそのまま当てはめることができませんでした。

 

そこで、信長は身分の低い若者や二男・三男以下のニートに近い若者と交流するようになります。若者との交流を通して、若者の才能を引き出しました。この若者を積極的に戦う集団として参加させました。この集団の中から滝川一益や前田利家らが誕生します。

 

 

関連記事:どうして明智光秀は織田信長を討てたのか?

 

 

桶狭間の戦いとは?

馬に乗って戦う若き織田信長

 

1560年に桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい
)
がありました。桶狭間の戦いは駿河国の大名今川義元が2万5千の大軍を率いて尾張国を攻めました。一方で、織田信長には数千の兵しかありませんでした。

 

今川義元は尾張国の南半分の城主を織田方から今川方に寝返らせます。今川義元は兵を分けて織田信長軍の砦と城を落とす戦略をとりました。今川義元は織田信長の砦を順調に落としますが、順調に戦を進めたことで油断が生じ、今川軍の組織が乱されていました。

 

今川義元の軍は気が抜けていると予測して、織田信長は今川義元の本陣の桶狭間に向けて突進します。このとき、今川義元の本陣に入っても兵は抵抗することなく、今川義元の首を討ち取ることができました。

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は若い頃の織田信長について取り上げました。初陣から桶狭間の戦いまでの織田信長について紹介しました。

 

最初に今川義元が織田信長を警戒するきっかけになった出来事について取り上げました。初陣の後、織田信長が組織した若者による少数精鋭部隊が尾張国の今川義元の城を落とします。この若い頃の織田信長の戦い方を見て、今川義元は信長を警戒するようになったと考えられます。

 

今川義元は2万5千の兵を率いて尾張国を攻めます。今川義元にとって大量の兵を率いたことでかえって人身の油断につながったことが誤算だったのかもしれません。一方で、織田信長は桶狭間の戦いを天下統一の足がかりとして全国平定に向けて動きます。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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